戦国武将 徳川家康の歩み(26) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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今日は、小牧・長久手の戦いの後半戦ですカブト
家康の背後の三河を焼き討ちにするため、羽柴秀次が率いる別働隊が夜半に紛れて出発したところですびっくりマーク


それでは家康の対応をお楽しみ下さい(^o^)/



【小牧・長久手の戦い(後半戦)】
天正12年(1584年)4月7日家康は小牧山城にて、秀吉の養子である羽柴秀次(はしば ひでつぐ)が尾張国の上条城(じょうじょうじょう)の周辺に宿営したとの情報を察知した。

天正12年(1584年)4月8日夕方羽柴秀次の意図を読んだ家康は、総勢13,800兵のうち、支隊として4,500兵を先行出発させ、小幡城に向かわせ、敵情を探らせた。

天正12年(1584年)4月8日20時家康織田信雄の主力9,300兵は、小牧山城を出発し、夜半に小幡城に着陣し、支隊と合流した。家康は、小幡城で軍議をおこない、本隊と支隊で各個に敵を撃破することに決した。

天正12年(1584年)4月9日2時家康の支隊は、小幡城を出発して、羽柴秀次を攻撃目標として進んだ。家康の本隊は、小幡城を出発して東へおおきく迂回し、色金山に向かった。

同日3時、一方、羽柴秀次の部隊は、秀次9,000兵、池田恒興(いけだ つねおき)5,000兵、森長可(もり ながよし)3,000兵、堀秀政(ほり ひでまさ)3,000兵の総勢20,000兵の陣容だった。まず、池田恒興が岩崎城へ攻撃を仕掛けていく。岩崎城の守備隊は善戦して時間を稼いでいく。この戦いの間、羽柴秀次森長可堀秀政の各部隊は、それぞれの場所で休息し、進軍を待った。しかし、徳川軍は背後に迫っていた。

同日4時過ぎ羽柴秀次は、白山林で休息していたが、家康の支隊から後方と側面から同時に襲撃された。この奇襲によって羽柴秀次の9,000兵は潰滅する。羽柴秀次は自身の馬を失い、供回りの馬で逃げ遂せた(にげおおせた)。また、目付の木下祐久やその木下一族が、羽柴秀次の退路を確保するために討ち死にした。

同日5時前、先頭にいた堀秀政に、羽柴秀次の敗報が届いた。堀秀政は直ちに引き返し、羽柴秀次の敗残兵を組み込んで桧ケ根(ひのきがね)に陣を敷き、迫り来る徳川軍を待ち構えた。勢いに乗った家康の支隊は、桧ケ根辺りで堀秀政を攻撃したが、返り討ちにされて逆に追撃された。

同日5時30分家康は、色金山に到着すると同時に、支隊の戦勝と敗退を知った。すぐに主力9,300兵を富士ヶ根へ前進して、堀秀政3,000兵と、森長可3,000兵の間を分断した。この時、堀秀政家康の馬印である金扇を望見し、戦況が有利ではないと判断し、勝手に楽田まで後退した。

同日8時家康は前山に陣を構え、右翼に家康自身3,300兵、左翼には井伊直政3,000兵、これに織田信雄3,000兵を配置した。一方、家康出現の報に対峙した羽柴軍は、右翼に池田恒興5,000兵、左翼に森長可3,000兵が陣取った。

同日10時、両軍が激突。戦闘は2時間余り続いた。戦況は一進一退の攻防が続いたが、前線に出て戦っていた森長可が狙撃されて討死して左翼が崩れ始めると、家康優勢となった。池田恒興も自軍の立て直しを図ろうとしたが討ち取られた。やがて羽柴軍は潰滅、合戦は家康の勝利に終わり、小幡城に引きあげ、翌日には小牧山城に戻っていた。この日の長久手の戦いにおける羽柴軍の死者2,500人余、徳川軍の死者590人余だった。

天正12年(1584年)6月28日羽柴秀吉は、家康との間で小競り合いはあったものの大阪城に戻り、これを受けて家康も小牧山城を臣下に任せ、清州城に移っていく。


本日はここまでです鉛筆

 

「家康は野戦(城にこもらずに戦う)が得意」を証明するような勝利ですねびっくりマーク

数では負けていても、戦略では負けていませんでしたカブト

 

次回の徳川家康の歩みをお楽しみにウインク

 

 

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