戦国武将 徳川家康の歩み(8) |     ✤ We Love Softbrain ✤ 

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皆さん、こんにちはビックリマーク

ソフトブレインのシニアAです音譜

 

松平元康(家康)が岡崎城に戻り1年が経ちましたクローバー

 

それではどうぞ(^o^)/


永禄3年(1560年6月)松平元康は桶狭間の戦いのあと、岡崎城に留まり、1年ほどが経過した。『早く駿府に戻ってこい』と今川氏真(うじざね、今川義元の息子で後継者)より矢のような催促がきていた。元康はその都度、『織田方の進出を抑えるためには岡崎城を引き上げる訳にはいかない』と伝え、拒み続けていた。

永禄4年(1561年1月)、20歳となった元康は、三河国全土の統一を企図(きと)した。それは三河国の1人の豪族に過ぎない元康にとって、何年かかるかわからない途方も無く大きな目標だった。

永禄4年(1561年2月)元康の家来の松平好景(よしかげ)が守る深溝城(ふこうずじょう)の正面には、吉良氏の居城である東条城がある。元康は三河国全土統一の最初の城として東条城を攻めたが、落とせなかった。

永禄4年(1561年4月)元康は次に、東三河にある今川方の牛久保城を選ぶ。城主牧野成定(なりさだ)今川義元の命令で西三河にある西尾城も守っており、牛久保城には家来を配置していた。元康は、この家来衆の中の3人を調略(味方に引き入れること)すると、4月11日に夜襲をかけた。のちに牛久保城の戦いと称されたが、攻略はできず、結果として今川氏真に裏切りが知れるところとなった。

永禄4年(1561年9月)元康は、深溝城(ふこうずじょう)を拠点として、今川方の西尾城に照準を合わせた。苦労したが、ようやく西尾城を攻め落とした。

そのすぐ後に、元康は、藤波畷(ふじなみなわて)の戦いで勝利し、吉良氏の居城であった東条城を手に入れた。

永禄5年(1562年)元康が21歳になる頃まで、今川氏真(うじざね)は父の仇の信長に対して報復戦を挑むこともなく過ごしていた。そのことに呆れた家臣たちが造反し、今川氏の勢力は急激に衰退していった。

21歳の元康と、29歳になった信長は、元康の伯父である水野信元(生母於大の兄)の仲介で、清洲同盟を結び、両者は幼い頃の誓い通り、互いに背後を固める約束をした。翌年には、元康信長が直接会って会談し、関係を深めていった。

永禄6年(1563年3月)、22歳の元康と、30歳になった信長は、同盟の証として松平家嫡男(ちゃくなん、最初に産まれた男子)竹千代(信康)と、信長家の娘五徳(徳姫、とくひめ)との婚約を行なった。

永禄6年(1563年9月)、三河一向一揆(みかわいっこういっき)が元康の本拠地である岡山城の周辺で勃発(ぼっぱつ)した。これは岡崎城に戻った元康が三河国の領国化政策(年貢は今川氏より軽くし、特権階級の特権を剥奪)を着々と進めたことが原因だった。

一向門徒(宗教集団)が蜂起(ほうき)し、それに加わる形で特権階級の民が反発し、元康の家臣の半分も反発した。

国を二分する動きがあるため、一揆平定は急務となった。半年間かけて、ようやく元康はこの一揆を平定した。反対派の国人を一掃し、家臣を貫高制(かんだかせい、収穫された農作物を通貨に換算した、「貫」を単位とした税収制度)などで再編成して、戦国大名として以前より強固な支配体制を構築した。



本日はここまでです鉛筆


元康の三河一向一揆の体験は、かなり人に苦労したでしょうから、元康の人となりを大きくしたことでしょうね音譜


次回をお楽しみにビックリマーク

 

 

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