アリスの人生学校
ピエール マッコルラン (著), Pierre Mac Orlan (原著), 吾妻 新 (翻訳)
かつて、この「アリスの人生学校」を読んで異常な興奮を覚えたことがある。
密かに淫らな妄想を抱いていた15歳の令嬢を陥れ、「純潔教育」の名の下ひたすらお尻をひっぱたき続ける、という大変に魅惑的な内容である。
その倒錯的欲求を満たすべく、パートナーとシチュエーションプレイを重ねたこともある。しかし、残念ながら「アリスの人生学校」を読んで想像していた、脳が痺れるほどの快楽を得るにはいたらなかった。
理由は初めからわかっているのだ。
スパンキングに必要なのは、その衣装や軽度の肉体的苦痛を伴う快楽ではなく、圧倒的に抑圧的な環境における禁止と違反、そして社会的身分に支えられた羞恥心である。
プレイと言う環境は、ロールプレイの束縛があるだけで、それは社会やプレイメイト以外の他者と根本的に切り離されている。プレイ的興奮は、この日常からの逸脱と開放から生まれてくるものだろう。
スパンキングは、生活と一個人のアイデンテティを養分として根を張る、究極の羞恥であるべきなのだ。残念ながら、現在の日本の都市生活者の意識にスパンキング的羞恥が侵入する余地は限りなく低い。
逆に、今でもヨーロッパに於いては、スパンキングのサービスが用意されていない娼館は潜りであると言われるほどの人気らしい。英国某王位継承者の話は有名であろう。
日本の都市生活における禁止/違反的快楽の見本は、昨今の性犯罪などを見ればおよその傾向をつかむことができよう。盗撮、監禁、痴漢、ストーキングなどが典型的例として挙げられる。
どの犯罪も、それを犯した者の社会的身分を一撃で粉砕してしまう違反性を持ち合わせているのだが、そこには貴族などの令嬢が持ち合わせていた、プライドと強烈な抑圧的自意識、それに伴う羞恥心が欠如している。
抑圧的環境が生む羞恥と自意識、その境界線上で展開する自己、他者に対する禁止と違反。自己確立を根本から揺るがすような快楽の侵食がそこにはある。
文化的背景にさえぎられ、私は一生スパンキングの快楽を味わえないのだと思うと、残念でたまらない。
私に娘が出来たら、純潔教育を施してしかるべき羞恥と快楽を得られるよう育てたいと思う。幼少の頃からのスパンキングと羞恥を重視した家庭内の教育が重要になるのは言うまでもない。
スパンキングと純潔教育に興味のある方は、ぜひ冒頭の書物を一読することを強くお勧めしたい。現代社会では得る事が出来ない束縛間と快楽に思いを馳せることが出来ることが出来るだろう。
sunny summer rain
もう数年前のことになる。
夏の終わりの沖縄は、近づいた台風の影響でどしゃぶりだった。
そんな中、3ヶ月前の初夏に約束した通り、彼女は待ち合わせの場所で傘をさして待っていた。
黒いサマードレスに、毒を持った甲虫を連想させる艶やかなネイルアートが、湿気た潮の香りと遊離していた。
彼女とは恋人同士ではなく、お互いに別の恋人がいた。
私が抱いていたのは、恋愛感情と言うよりはむしろ親友のそれに近いものだった。
彼女とは、お互い「見せ合う」仲だった。身体の部位を見せるにつれ、精神的な内容物まで晒す結果になっていたことは、今だから素直に認められることである。
3ヶ月ぶりの再会に、抱擁や接吻はなかった。もとから恋人としては振舞っていなかったし、3ヶ月の時間が私をそのように駆り立てたりもしなかった。
久しぶり、と軽い挨拶を交わし、私たちはどちらからともなく手をつなぎ、雨の中を歩き出した。
彼女はとても良い匂いがした。歩きながら、今朝美容院に行ったこや、飛行機が欠航になって遅れそうになったことをいつものように話した。私はこの3ヶ月間で経験した、取り留めのない事を笑いながら話した。
国際通りから市場本通りをひとしきり散策し、彼女がとってくれた宿にたどり着く。雨と汗で濡れた体に、冷房の風が心地よかった。
「私、水着を買ったの 見てくれる?」
部屋に着くなり彼女は唐突に切り出した。期待を悟られないよう、曖昧にうなずく私。
「白でフリルがついてるから、下着みたいで恥ずかしいの ねえ、これ下ろして」
そう言って、ワンピースの背中のチャックを差し出す。汗と香水の混ざった匂いに軽い眩暈を覚えながら、私はそのチャックを腰上まで下ろしてゆくのだ。
ワンピースの下は、ブラジャーの代わりにすでにビキニの水着だった。彼女の胸は平均女性より大幅に大きい。パットを入れずに、直接素肌に張り付いた真っ白な水着は、痛々しいほど勃起している乳首を浮き上がらせていた。
私は、なるべく彼女の素肌に触れないように気をつけていた。それが二人の官能をさらに高めることが、経験上分かっていたからだ。
私たちは、セックスしたことがなかった。むしろ、セックスしないことそれ自体が目的にさえなることがあった。
彼女がこちらを向く。上気した頬が美しい。汗で脱ぎにくくなった上半身のワンピースをもどかしげに腰まで下ろすと、スカートの中に手を入れてゆっくりと下着を下ろしていった。
ミニのスカートと太腿の間から、黒い下着が下がってゆく。見せ付けるように裏返したクロッチ部分は、粘性の液でべたべたになっていた。
手をさし出すと、彼女はとても恥ずかしそうにその下着を私に手渡してくれた。私は粘液を指ですくい、口含む。彼女はそれを見て足踏みをし、太腿をよじる。私の下半身も、タイトなジーンズに収まりきらないほど隆起していた。
彼女は私に様々な角度から視姦されながら、鞄の中から水着の下を探すのだった。ゆっくり時間をかけながら、床に置いた荷物を開けたり閉めたりする。膝を曲げずにしゃがんだり、私が正面に回るとオシッコポーズでしゃがみこんでくれた。
やがて彼女は残念そうに水着を鞄から取り出すと、私に向かってお尻を振りながら水着を穿いていった。水着はたしかにフリルがたくさんついており、ウエディング用の下着のようだった。履き終わると、腰をくねらせながらワンピースを下ろし、晴れて水着姿が披露されたのだった。
恋人のような甘い言葉で彼女の美しさを褒める私は、自虐的な束縛感に酔っていた。ここ1週間ほど、謀らずと禁欲生活を送っていた私の下半身は、すでに暴発寸前だった。じっとりと汗を浮かべる彼女の四肢の隅々まで、私は穴の開くほど見つめ、表層の賛辞を送る。
唐突に、彼女は切り出した。
「オシッコしていい? 実はずっと我慢してたの」
ごめんね、気づかなくてと言う私。3ヶ月前も繰り返された会話。彼女は必ず私に排泄の許可を求める。時には排泄を禁止し、時には幼児のようにやさしく接する。
彼女をトイレまで先導し、ドアを開ける。洋式トイレだ。彼女は便器の上に上り、タンクに向かいしゃがみこむ。水着は穿いたままだ。
「もうしていいの? ねえ?」
駄目だよ、といいながら下から彼女のお尻を覗き込む。先ほど穿いたばかりの水着の股間には、すでに大きな染みが出来ていた。
彼女はしきりに排泄の許可を求め続け、それを禁止し続ける私。5分後、彼女の白いフリルの水着は檸檬のような黄色に染まってゆくのだった。
彼女と会わなくなって数年。台風の日と、黒のワンピース、白の水着、黄色いオシッコ。
美少年≒美少女≒アンドロギュヌス≒宇宙
Hans Bellmer La Poupee, 1936-1938
私は美少年が好きだと公言して憚らないのだが、そこには対自己的カモフラージュ要素があることは否定できない。
ナルシスティックでネクロフィリックな欲求へのリビドーである事は確かなのだが、私はその事実は晒すことに対して特に羞恥心はない。
美少年の中で、女装している美少年が好物である、と言うのがその理由だろう。さらに言うと、きわめて女性的なアンドロギュヌスが美少年の理想像なのだ。
ギリシア的、タルホ的な自己愛と形而上学的美少年の儚さにも大変に魅力的である。言わば、美少年好きの本流である。
しかし私が志向するのは、限りなく美少女に近い美少年なのだ。
美少年好きを名乗る者として、あるまじき所業ではないか!
少女と見まごうばかりの美少年にコケティッシュな服装をさせる。異国の姫君のようなドレスに、レースをふんだんに用いた下着類、ガーターストッキングと貞操帯などがよろしい。
対照的に、露出度の高いフリルのマイクロミニに生足、ピン・ヒールなども捨てがたい。スカートの下に下着は許されない。当然下半身は完全に無毛処理である。上半身薄い素材の白ブラウスに、派手な色のブラジャーを透けさせるのがよい。
美少年が美少女に変貌を遂げる。自らの変貌ぶりとナルシシズムが混合し、美少年≒美少女の下半身に異形のシンボルがそそり立つ。
そして、美少女になった美少年が味わう周囲の視線は、未体験の羞恥を浴びせかけるのだ。
意思に反してエレクトした下半身が、スカートに巨大な突起を作る。
前を押さえながら、スカートを気にして歩く姿は普段からそれを履きなれている女性より女性的であろう。
視姦されることによる受身の性と、圧倒的にそそり立つ下半身のシンボルが魅惑的に、不条理に美少年≒美少女を支配してゆく。
美少年と美少女、アンドロギュヌスはその輪郭の融解点を迎える。永遠の中で瓶詰めされ、輝き続ける薔薇色の肌を夢見て、私は自分の中で矛盾している表層のエロティシズムを誤魔化し続けているのだ。
眼球譚的野外性戯
***真夏になると、こんなシーンが脳内を交錯する***
肌を突き刺すべく太陽が降り注ぐ、真夏のマドリッド。
乾ききり、埃が舞う土気色の路地裏。
シェスタのためか、人気がなくなった昼下がりの住宅街。
その中、鮮やかな衣服を表面に貼り付けた、太陽をあざ笑うような真っ白な肉体が横切って行く。
男女は噴出す汗も気にせず、次の路地へと急ぐ。
女性の纏っているワンピースは辛うじてお尻を隠す程度で、歩くたびに揺れる裾がそこに収まっている肉体の窮屈さを暴露する。
自らへの贖罪なのか、他人の気配がないことを申し訳程度に確認し、女性は衣服と言うにはあまりに頼りない膝上の布切れを捲り上げる。
下着は一切ない。露出する肌。風景を切り裂く、あまりに白い肌。
女性は前かがみになり、そのお尻を高くあげ、せわしなくくねらせる。
狂おしい羞恥と切迫した尿意のため、女性は悶え、膝をよじり合わせている。
男性は、汗と尿と粘液にまみれている太腿の裏側をねっとりと視姦してゆくのだ。
そして人の気配を背後に感じると、二人は何事もなかったように衣服を元に戻し、路地の先へ歩を進めてゆく。
時折、女性は立ち止まり、苦痛のため前かがみにしゃがみ込む。短すぎるスカートの裾から、お尻がほとんど丸出しになる。しゃがんだ際、女性の踵はその局部に押さえつけられた。
強烈な排泄欲と快楽、羞恥が交錯する。男性は視姦する。女性は視姦され、美しくなる。女性の吐息が洩れる。
お尻が見えていることを男性に注意されると、女性は意を決したように立ち上がる。
その踵には、梅雨明けのカタツムリが這ったように、きらきらとした粘液が糸を引いていた。
耐え切れず漏れ出したオシッコが、乾いた大地に数滴したたり落ちる。
太陽が斜めに照りつけはじめ、一日で一番暑い時刻が迫っていた。
さらに汗が噴出す。すでに太腿から下は様々な体液でぬめるように光っている。
男女は、次の路地へと急ぐ。
はちきれそうな膀胱と、それを周囲に悟らせまいとする動作がさらに羞恥を煽る。
逃げるように、次の薄暗い路地裏に入る。女性が布をまくる。
人の気配が途切れたところで、男性は短い時間だけ、女性に挿入する。
時間にしてわずか数秒。アクメに達する直前に、挿入を中止する。
そして、また何事もなかったかのように衣服を戻し、街路へ出て次の路地を探す。
人通りは増えている。尿意も、限界がすぐ目の前に迫っている。
永遠に繰り返される路地探し。円環状に高まってゆく官能。
わずかな時間だけの、粘膜の癒着。真夏の光の中で融解する真紅のゼリーのような…
一瞬の永遠が放流された時間を無慈悲に支配してゆくのだ。
ピン・ヒール
靴屋に行くと、長い時間をかけてヒールを吟味してしまう。
街行く女性が素敵なピンヒールを履いていると、堪らなく魅力的に感じてしまう。
正直、自分で履きたいと言うのもかなりある。
古今東西、フェティッシュと言えばピンヒール、ピンヒールと言えばフェティッシュと言うくらいフェチ界では語りつくされている素材である。
端的にピンヒールの魅力を語るのは相当難しいが、今この文章を書くにあたってに思いついた言葉は「違和感」である。
素材、色、状況、実用性。すべてが本来の機能的な「靴」から逸脱を指向している。光沢のあるエナメルや、ジュエリーをあしらったもの、サイバーな新素材や斬新なデザイン、必然性のないフォルム。
靴下、パンツ、ストッキング、下着など、セカンド・スキン的衣服とは真逆のコンセプトを持ち、女性の体の表層で隣接しているのだ!
しかも、このように逸脱している<靴>が一般的な商店で販売され、さらに比較的ポピュラーなファッショングッズとして販売されている。ボンテージやラバーと決定的に違う点は、まさにここである。
そこに「靴」としての機能が極小化してゆき、煌びやかなヒールで足元を飾れば飾るほど内面がむき出しになってゆく。
女性の足元に現れる違和感≒果てしない内的快楽への小さな除き穴。
そこにたまらないフェティッシュと、エロティシズムが凝縮されているのだ。



