ついに聖金曜日を迎えた。
昨日も書いたが、現在イタリアの学校はパスクワ(復活祭)休暇中。昨年は木曜日も金曜日もシッター先の子供達は在宅だったので、終日出勤であったが今年は両親が休暇を取り、早々にクレモナの家に出かけてしまったので、私は休暇中どこか1日だけ、家の片付けに出かければ良いこととなった。
聖金曜日。「主の受難」とも呼ばれる。
聖木曜日、イエスは弟子たちの足を洗った後に、最後の晩餐を行うが、金曜日に鞭打ちに遭い、十字架にかけられ、午後3時ごろ息を引き取る。
なので、この日は、一年間で唯一ミサが執り行われない日でもある(ただ、前日に保管しておいた聖体を拝領する儀式は行われる)。
あまりにも美しい旋律で、歌っていると涙が溢れてきてしまう。
Ora ti chiedo umilmente, mio Dio di perdonare il mio cuore insicuro:
dammi la forza di accogliere ancora la Tua parola, il Tuo gesto d'amore
私の神よ、今あなたに、伏して赦しを願います。自信のない私をお赦しください。あなたの御言葉、あなたの愛の行いを再び受け入れる力をお与えください...
以前、ある司祭とのメールでのやり取りの際にあった言葉。(ノートに記している)
『キリスト教は奇跡を云々する教えでもありません。キリストの言葉に活かされる、生かされる宗教。なので観念的なものでもなく、実際にキリストとの出会いがなければ…生きたキリストとの出会い。ワケのわからない宗教。(しかし)この男の言葉にこそ、人間の生き方が示されている。それだけで充分信じるに値します。』
上記、聖歌のタイトル"e lo credemmo abbandonato da Dio"は「神に見放された彼を信じ」という意味だが、まさに神に見放されようとも彼を信じること。それが信仰なのだと改めて教えてくれる一曲。
祭儀の後、皆行列になって横たわった十字架にそれぞれ挨拶する。
コロナで一時期禁止になり、皆も少しは控えるようになったか?と思ったが、それでも十字架像に直接、キスする人は多い。
私はイエスの足の釘と胸の傷に触れた。
ところで、話は前後するが、聖金曜日の共同祈願は「盛式共同祈願」と呼ばれ、教会と世界全般のために、教会、教皇、信徒、求道者、キリスト教の統一、ユダヤ人、キリストを信じない人、神を信じない人、政治の指導者、苦しむ人々など、10の意向で祈る世界のための荘厳な祈りが捧げられる。
教皇レオ14世はこの3月は、祈りのテーマとして「装解除と平和のために」を掲げられた。
また
教皇レオ14世は、ローマのコロッセオで行われたVia Crucis(十字架の道行)の全14留において、全てを自ら十字架を掲げ、受難のキリストと共に歩む深い祈りを捧げられた。
十字架を携えることで、さまざまな戦線で血に染まった世界の傷を負い、その重荷を自ら背負おうとしているかのようであった。しかしそれだけではない。その十字架は、苦しむ多くの母親たちの苦しみや、尊厳を奪われた多くの人々の苦しみをも背負うためのものでもある。
そして、このヴィア・クルーチスの終わりに、教皇レオ14世は、今年帰天800年を記念する「聖フランシスコ年」の聖フランシスコの祈りを捧げられた。それは、父と子と聖霊を結ぶ愛の関係へと、次第に深く関わっていく道として、私たちの人生を歩むよう招く祈りだと言う。
全能にして永遠、正義と慈悲に満ちた神よ、私たちのようなみすぼらしい者たちが、あなたの愛ゆえに、あなたが望まれることを行い、常にあなたに喜ばれることを望むことができますように。そうして、内面から清められ、内面から照らされ、聖霊の炎に燃やされて、あなたの愛する御子、 私たちの主イエス・キリストの足跡をたどり、ただあなたの恵みによって、至高なるあなたのもとへ至ることができますように。あなたは、完全なる三位一体と単純なる一致のうちに生き、支配し、栄光を受け、全能の神として、世々限りなく。アーメン
そして、改めて「聖フランシスコの平和の祈り」を唱えてみた。
主よ、わたしを平和の器とならせてください。
憎しみがあるところに愛を、
争いがあるところに赦しを、
分裂があるところに一致を、
疑いのあるところに信仰を、
誤りがあるところに真理を、
絶望があるところに希望を、
闇あるところに光を、
悲しみあるところに喜びを。
ああ、主よ、慰められるよりも慰める者としてください。
理解されるよりも理解する者に、
愛されるよりも愛する者に。
それは、わたしたちが、自ら与えることによって受け、
許すことによって赦され、
自分のからだをささげて死ぬことによって
とこしえの命を得ることができるからです。
実際、これは、聖フランシスコが作ったものではないらしい。しかし、第一次世界大戦や、第二
次世界大戦の際、教皇や高位職の方々が広めたようだ。
また、元アメリカ大統領ビル・クリントンは1986年に訪米したローマ教皇ヨハネ・パウロ2世を迎えて、この祈祷文を話題に出して「アメリカでは、カトリックやプロテスタントを問わずこの祈祷文を持っています」と言ったそうだ。であれば、この祈りのごとく、憎しみのあるところに愛を、分裂のあるところに一致を!
追記
「この日は、一年間で唯一ミサが執り行われない日でもある」と書いた。聖金曜日は、ミサは行われないが、十字架の受難を記念する「主の受難の祭儀」が行われるためである。しかし、聖土曜日もミサはない。この日はキリストが墓に葬られている状態であり、主が墓の中にいることを思い起こす喪に服す日であり、教会の祭壇は飾られない。復活徹夜祭は、聖土曜日の日が沈んでからになるので、翌日の日曜の復活祭のミサとなる。

