聖週間2026 〜 枝の主日 溢れる愛 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで33年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

 

「枝の主日」 “Domenica delle Palme”を迎え、復活祭1週間前の聖週間に突入した。

 

夏時間初日。1時間前倒しになったわけだが、ミサ前に当日と聖週間の聖歌の練習があり、朝が弱い私としてはきつかった。苦笑

 

今年はキリケッテイ(待祭)が多く、白に赤字の祭服は天使のようで可愛かった。

 

入祭で皆、オリーブの枝を振りながら、ホザンナ、ホザンナと歌う。それはイエスのエルサレム入城を歓待する民衆を思い起こさせた。

 

しかし、民衆は期待した『政治的な解放者(メシア)』像と、イエスが示した『霊的な救い主』としての姿とのギャップに失望し、更にサドカイ派やファリサイ派などのユダヤ教指導者層は、イエスが民衆の支持を集めることを恐れ、彼を排除しようと画策。

 

エルサレム入城(枝の主日)から、わずか数日後の磔刑に至るまで、民衆の態度は一変してしまう。

 

ところで、本日の福音は、ローマ典礼では、ヨハネ27章11-54節が朗読されたが、ミラノのアンブロジアーノ典礼は、ヨハネ11章55節~12章11節、「ナルドの香油」の部分であった。

 

ナルドのマリアは、自分の持っていた全財産であったであろうナルドの香油を1リトラ(約300グラム)、300デナリ(労働者の1年分の賃金に相当する)をイエスの足に惜しげもなく注ぎ、大切な髪で拭ったという話。

 

お説教の中で、"spreco" と言う言葉が使われた。本来は、「無駄遣い」という意味である。お金を始め、食べ物の無駄(遣い)で後悔することはあるが、"spreco di amore"「愛の無駄遣い」つまり、「惜しみない愛」について考えさせられた。

 

聖書の中で、ユダが投げかけたように、香油を売って、貧しい人々に施すことも可能であっただろう。

 

しかし、なんの見返りも期待せず、無償で誰かのために動いた事はあっただろうか?それはいつが最後だったのだろうか?と自問自答…。

 

Spreco…無駄遣いは一般的には、マイナスの要素が大きいが、愛を大いに人のためにふるまう器の大きさ、愛の知恵とは…それこそ、「真の愛」にはやりすぎ、という概念がないのかもしれない。

 

パパ様は、この日の「お告げの祈り」で、残忍な紛争のために、多くの場合、この聖なる日々の儀式に十分に参加することができない中東のキリスト者たちに思いを向けながら、和解と平和への歩みが開けることを祈られた。

 

この時代に、今もなお主の苦しみに直面している人々を忘れてはならない。そして、戦争を起こし、正当化する者たちに耳を傾けず、拒絶する勇気を持ち続けたい。


今日の一句

ホザンナ‼︎ いと高きところに ホザンナ‼︎