一度外に出て、今度は地上階にあるサン・セポルクロ教会へ。(地下聖堂と地上階の教会には繋がっている階段はあるものの一般的には通れないようになっている)
教会のファサードは19世紀末に、中世の古い建物によりふさわしいとされるロマネスク様式で再建されている。
こちらは再建前と後の画像(ウィキペディア抜粋)
上は1894年以前のもので、下は1897年から1903年の間くらいの画像だそうで、ファサードが新しくなっている。
1928年、サン・セポルクロ教区が廃止されると、この上層教会と地下聖堂はアンブロジアーナ図書館の資産となり、現在も同図書館が管理している。
アンブロジアーナ図書館の資産であるとは知らなかったので、そちらの館長が知り合いの司祭なので、後からその日の見学の事を報告すると、次は是非アンブロジアーナ図書館を訪問しに来てください、と出張先のドバイよりお返事頂いた。
余談だが、こちらが前回書いた1030年当時神殿や造幣局のあった広場。現在は警察が建っているが、15世紀にたてられたカスター二邸跡。入り口と中庭がブラマンテ様式なっているが、中が覗けないのが残念!後にミラノ・ファシスト連盟の本部となり有名となった。また、この広場の名前に由来して、「サンセポルクリズム」という名称が生まれた。
塔は後から造られたものだが、見るからにしてファシスタ的建築デザイン!
祭壇正面。
入り口入ってすぐ両脇のアトリウムは、バロック式で、建築家のフランチェスコ・マリア・リキーノによるものとされ、2つの礼拝堂に囲まれている。
こちらはカルロ・ベッロージオによる「サン・カルロ・アル・セポルクロ」。セポルクロ礼拝堂を愛したサン・カルロ。良く見えないが、地下に続いている階段が描かれているそう。
カルロ・フランチェスコ・ヌヴォローネによる「聖フィリッポ・ネリが崇拝する神の母」(1717年)
この扉の内側に地下から繋がっている階段があるそうだ。
この聖堂は西暦1681年に礎を据え、神の下、ゴドフロワ・ド・ブイヨン(Godefroy de Bouillon・第1回十字軍の指導者の一人)率いる聖戦において
露の如き報酬を得た者は幸いなり。
主の墓に倣い再建せりアンセルム4世 メディチ大司教、1200年奉献。
聖カルロ・ボッロメオによりその庇護者フェデリコ枢機卿の手でオブラート会へ譲渡。
磨き上げられたアーチと柱で装飾 再び、多岐にわたる修復を経て、神聖なる奉仕への敬虔な献身をもってより優れた形態へと装飾された。西暦1791年
入り口の階上にあるパイプオルガン。↓
後陣の前に置かれた石棺は、おそらく14世紀前半のカンピョーネの職人の作品であり、ロンバルディアの十字軍が聖地から持ち帰った聖遺物(エルサレムの土とマグダラのマリアの髪の毛)が収められていたものと思われる。
ちなみに、中世においてカンピョーネは、現在のコモ県の石工の出身地として知られていた。12世紀から14世紀まで、優れた石工士達は"Maestri campionesi"と呼ばれていた。
またこの画像には、降下されたキリストの祭壇があるが、中世では殉教者の墓の上に聖餐を行うようになったことから、石造りの祭壇が始まり、遺物を納める習慣も生まれたという。
そして祭壇の後ろ側には、上記の石棺があり上に天使が見えるということは、空の墓、つまり「復活」を象徴していることがわかる。空になった墓が、イエスが栄光ある復活を遂げられたことを示し、天使たちがそれを証言しているのだ。
“ SEPULCHRUM EIUS GLORIOSUM”
こちらは、カミッロ・プロカッチーニによる「聖ジョルジョと竜」。主題については、聖人達の
伝説を集成した「黄金伝」にある物語。
また、祭壇の両側にある2つの礼拝堂には、左側に「最後の晩餐と洗足」、右側に「カイファの前でのイエス」、「鞭打ち」、「ペテロの否認」を描いた三連祭壇画という、2つの貴重なテラコッタの彫刻群がある。
現在こちらの教会は、 2014年より、ミラノ在住のイタリア系アルバニア人共同体の伝統に従い、ビザンチン典礼によるミサ聖祭が執り行われている。ミサ聖祭は、東方教会の伝統に従い、アルバニア人によって守られてきた古代ギリシャ語で1週間、またアルバニア語で1週間、それぞれ行われ、一部の朗読(福音書など)はイタリア語で行われているのだそうだ。
今回も沢山勉強になった。企画関係者の方々に感謝!
今日の一句
好奇心 ますます刺激 再発見(ツアー)
まだまだ出てくる 埋蔵文化財!













