教会は、死者のために祈ることにより、生きている人だけでなく、亡くなった人をも含む、交わりの共同体であるという考えを深めてきた。カトリックにとって「死」は終わりではなく新しい始まりであり、「死」の後には肉体を離れた「永遠の生命」があるとされているからだ。
ミサの中で、この1年亡く帰天された方々の名前が読み上げられた。
私の教会内の信徒のみの名前であったが、「カルロ、ジュセッペ、アンナ、マリーア、ジョヴァンニ、カルロ…」名前だけではどなたのことなのか全くわからず。しかも、かなり時代的か?同じ名前が多い。
私もミサ中、昨年末から神の元へ帰られた、身近な人を思い起こしていた。空手仲間のF爺、霊的指導者であったシスターのお二人、叔父、叔母…。直接は存じ上げないが、友人のお父様の葬儀にも参列した。
シスターの存在は私の中では大きかったが、F爺の存在も同様で、しばらく心に穴が開いたような状態で、修道会や彼の家の近くに行くとどうも心が落ち着かなかった。
F爺の晩年は奥様がコロナ期にいきなり先立たれ、子供もおらず、親類ともうまく行っておらず孤独であったのは、知っていたし、空手仲間と寄り添って来ただけに、同士であり、友人であり、父のようでもあった彼の存在が大きすぎて、道場で何か問題がある度に、彼だったらどう見ていただろう…と考える。
復活祭には、彼と奥様の遺灰を彼の好きだった山に蒔く、と彼の姪たちは言っていたが、夏休み前に連絡をしたら、忙しくて…と言い、秋には出かける、と言っていたが、どうなったのだろう?連絡しようと思ったが、躊躇してしまった。きっと家もあのままのはずだ。
しかし、彼女から、F爺が大切にしていた50数年前他流で黒帯を取得した時の記念メダルと3年前に我が道場で取得した黒帯を私が頂いてしまった。彼の空手愛を忘れずに持ち続けたいと思っている。
他にも、亡くなった叔母が描いてくれた絵を見ては、思い耽ったり、亡くなられた方々の事を想い、祈る。それは決してネガティブな事ではないと思う。
私たちすべての人間は、人生の最期には、必ず死に直面せねばならない。今日という一日が与えられたことを神に感謝し、今日一日、与えられた命を精一杯生きていく…、それは有史上繰り返されてきていることだが、実は「生かされている」不思議な恵みなのだと思う。
死を想いながら、「生きる」ことを考える。
毎日を大切に生きよう。
死者のための祈り
主よ、みもとに召された人々に永遠の安らぎを与え、
あなたの光の中で憩わせてください。アーメン

