10月はカトリックでは「ロザリオ」の月でもあるが、毎年10月の最後から2番目の日曜日はカトリック教会の「世界宣教の日」にあたる。
この日はすべての信者に宣教に心を呼び起こさせ、世界に福音が広まるように祈ると共に、宣教者たちへの精神的、物質的援助、宣教者間の交流の推進などが呼びかけらる。
とはいえ、ミラノ大司教区は、10月の第3日曜日には、「ミラノ大聖堂の奉献」の祝日であり、「世界宣教」は毎年1週間遅れてお祝いすることになる。
というのも、ミラノのドウモ初代ミラノ公ジャン=ガレアッツォ=ビスコンティの命によってドウモ・ミラノ大聖堂は1386年に起工、1577年10月20日に献堂されたため、重要な記念日なのだ。
ところで、今朝、午前中に古武道のオンライン稽古があったため、地元パロッキア(小教区教会)のミサには出られず。それでも午後には、月に一度の日本語ミサがあり、しかもローマ典礼にあずかることができた。
福音朗読(ルカ18:1-8)では、「気を落とさずに絶えず祈ること」が重要であると教えるたとえ話であった。たとえ状況がすぐには変わらなくとも、諦めないことが大切。
祈りとは、キリスト者にとって旅路に属する大事なもの。心からの祈り。神との対話。自分はどうであろうか…?ミサの間思い巡らした。信仰生活とは祈りと実りである。
宣教者のみならず、全ての信者が教会の交わりと宣教に与えられた使命を深め、日常生活の人々とのかかわりの中で、神の愛を証していくことが大切なのではないだろうか?ただで頂いたものを、人々にお裾分けしていく…そんな感覚で良いのではないだろうか?
この夏あたりから知り合いになった友人とは、特に個人的な話をすることもなかったが、ひょんなことで食事を共にし、教会の話になり、家族は信者なので聖書を「日本語で」学びたいと言われた。それであれば、ミラノには日本語を話す司祭は数人しかいない。(おられるだけでもすごいこと!)ご紹介しますよ、といいちょうど3日後にあった日本人ミサについて話したら、是非伺いたい、ということでお子さんを連れて来られた。
私は橋渡しをしただけなので、あとは、神様が何とかして下さることだろう。
また日本人教会から十数年離れておられた日伊ご夫妻が来られていた。会のお知らせを送り続けていたから良かったのかもしれない。
実際私に出来ることなどたかが知れている。ただ「世界宣教の日」に新たな出会い、そして再会があったことを嬉しく思う。
ミサ後の茶話会には、家にあったマシュマロとファッロ(スペルト小麦)を軽く上げたフレークがあったので、溶かしバターに上記とナッツ、レーズン類を投入しポン菓子を作っていった。
こちらは(前教皇フランシスコが「諸民族の中で生きる希望の宣教者」と題して発行されたメッセージ。


