ミラノ再発見 〜 センピオーネ公園とトリエンナーレ館 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

北イタリア日本人会企画の「ミラノ再発見 〜 トリエンナーレ館」に参加してきた。
 
カドルナ駅より、スフォルツェスコ城裏側からセンピオーネ公園に入った。
 
スフォルツェスコ城は、14世紀に権威を振るい、都市国家ミラノを支配したヴィスコンティ家の居城として建造され、その後、15世紀半ばにミラノ公爵となったフランチェスコ・スフォルツァが改築と拡張を行い、重厚な石造りの城塞が完成した。
 
そして、センピオーネ公園は、かつてヴィスコンティ家の公爵領の公園「バルコ」(Barcho Duclae)であり、元狩猟場であった。その後、スフォルツァ家の没落とスペインの支配により、公園は放棄され、兵舎の広場へと変貌したが、19世紀に現在の公園として再開発された。
 
 
 
余談だが、今年2回、ダ・ヴィンチの「ロンダニー二のピエタ」像を観に行ったが、その設置場所が元スペインの兵士たちを収容させる病院内であった?という謎が、今になってやっと解けた!

尚、ナポレオン時代、彼の命によってアレーナ(円形劇場)とパルコ・デッラ・パーチェ(平和の門)が建設され始めた。アレーナは1807年に開館したが、平和の門に関しては、彼の失脚により一時中断。出来上がるまでかなり時間を要した。
 
そして、1859年にミラノがイタリアに統一された時、ヴィットリオ・エマヌエーレ2世が凱旋門を通って初代イタリア王として市内に入った。
 
公園内から、トリエンナーレに向かって歩いていくと、可愛い橋に遭遇。誰もが、「こんなところ知らなかった!」と声をそろえて言った。
 
imageimage
 
“Ponte delle Sirenette”「人魚の橋」。かつてこの橋は、ヴィスコンティ・ディ・モドローネ通り沿いのナヴィーリ運河沿いにあったと言う。(1840-1842年製作) 運河が埋め立てられた後(1930年)、センピオーネ公園内に移設されたもの。当時この人魚は”sorelle Ghisini”と呼ばれていたそうだ。(錬鉄の姉妹)
 
余談だが、1943年、爆撃により彫像の1つが深刻な損傷を受け、48年には、2つ目の彫像が盗まれたと言う。
 
公園内では幾つかの芸術作品に出くわした。
 
こちらは、73年、第15回トリエンナーレのためにアルマンが制作した、実際に使用できる彫刻作品。“Accumulazione Musicale e Seduta” 凝縮された音楽と観客席(?)
 
これは、観客席で構成されたオーケストラの舞台を表現しており、その階段には、さまざまな形の鉄製の椅子が鉄筋コンクリートに閉じ込められているのが見える。一方、正面にある指揮台には、トランペットやその他の楽器が封じ込められている。
 
image

 

“Teatro Continuo “ 継続する芸術(?)

 

 

平和の門とスフォルツェスコ城の間に位置する野外ステージ。

 

ブルリによる舞台構造を必要最小限に抑えた構想で、プラットフォームと、片面が白、もう片面が黒の6つの回転式サイドカーテンで構成されている。芸術活動や公演だけでなく、誰でも自由に利用できる、常に使用可能な舞台なのだそうだ。

 

舞台という概念が都市空間に組み込まれ斬新。

 

 

 

周りには、大きな銀木犀の木が沢山植えられており、優雅な気分に包まれるようであった。(これまた余談だが、イタリア語では金木犀も銀木犀も”osmanto”であった)

 

 

一般公開されている公園で芸術を日常に感じられるミラノは素晴らしい。

 

ところで、話は前後するが、ミラノ・トリエンナーレ  は、ミラノで3年に一度開催される国際美術展覧会。1923年にモンツァで装飾芸術のビエンナーレ(2年に一度)として始まり、1930年からはトリエンナーレとなっており、ミラノには、1933年5度目からである。

 

ジョヴァンニ・ムツィオ 設計の「芸術王宮」"Palazzo dell’Arte" 正面入り口。

 

 
裏の中庭側。フォーリ・サローネの時期はここでアペリテイーボする人でいっぱいになる。
 
image

続く。
 
今日の一句
枯葉舞う 芸術の秋 歴史散策