前回2月にローマは出かけた際、サンタ・プラッセーデ聖堂をもう一度見たいと思っていたら、お昼時間でちょうど閉まっていた。そちらが今回巡礼のグループのツアーに含まれていたので本当に嬉しかった。
目と鼻の先にあるレデンプトール会本部の教会前に集合であった。28年ほど前、当時は夫の駐在のためローマ在住であり、今は亡きブドロー神父様と聖書をこの教会で学んでいた。
何と言っても有名なのが、こちらの15世紀のビザンチン美術を代表するイコンである「絶えざる御お助けの聖母」の聖画。
15世紀末にローマに移され、聖マタイ教会に掲げられていた。しかし、1789年に聖マタイ教会の聖堂が破壊されたことに伴い、イコンも行方不明となっていた。1863年に発見され、聖マタイ教会跡地に建立された聖アルフォンソ・デ・リゴリ教会に掲げられることになったと言う。
1865年、レデンプトール会の修道司祭らは、教皇ピウス9世からこのイコンの管理と広報を委託された。やがて、ローマ・カトリック圏内においては、このイコンの人気が次第に高まり、多くの複製や模写が描かれ続けてきたと言う。
1867年6月23日、このイコンは聖座において戴冠を受け、「絶えざる御助けの聖母」の称号のもとに聖母聖画として公認されたのだそうだ。
ここでは良くは見えないが、聖母マリアの頭の左上にMP ΘYの文字がある。これはギリシャ語でMP・母、ΘY・神を示す。すなわち「神の母」を意味するのだと言う。
そして、イエスは恐れをすべて母マリアに託すかのように、両手で彼女の手をしっかりと握っている。これは、天の父から与えられた贖罪の恵みを聖母に託し、彼女に取り次ぎを祈り求める私たちに、その恵みを分かち与えることを委ねたという意味なのだそうだ。また一方、マリアの右手はイエスの両手を握り返す代わりに、柔らかく開かれている。イエスと同じように、私たちも苦しい時にその手を委ねなさいと、私たちがすがりつく場所を空けてくださっていると言う。
また、かろうじてイエスの足にぶら下がっているサンダルは、私たちの魂の象徴なのだそうだ。これはたった一本の紐でも良いから、キリストにつながれていれば必ず救われるということを表しているという。また、イエスは私たちを見ているのではなく、まして母マリアやまわりの天使たちを見ているのでもない。何かとても恐ろしいもの、あまりの恐ろしさにサンダルが落ちそうになるほど急いで母のもとに走ってきて、必死にしがみついて守ってもらわなければならないものを見てしまったのだという。
ところで、この日はイタリア全体がショペロ(ゼネスト)が行われており、町は飛んでもない渋滞であった。(そうでなくても、ローマの町はあちこち工事中でバスは来ないし、渋滞しているし、とんでもない。というわけで、2つのグループと集合のはずであったが、一つは徒歩で時間通りに現れたが、他のグループは本来5台の大型タクシーで到着するはずが、3台しかこなかったとかで、添乗員及びガイドさんがなかなか到着せず、しかも上記教会はポーランド人巡礼者のためのミサ中でお御堂にも入れず、外で待ったり、途中からプラッセ―デ教会を行ったり来たりした。
こちらは、プラッセ―デ教会の司教館。2階の窓枠には、”ora et” “labora” 、ラテン語で「祈れ、そして働け」と書かれている。
プラッセーデ教会はあまりにも美しかったので、改めて別枠で書こうと思う。
その後、パパ様と謁見を済まされた菊地枢機卿様も交えて昼食会が行われ、その後サンタ・マリア・マッジョーレでのごミサにあずかった。
サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂は、バチカンの四大教会のうちの一つで最後に建てられた教会。西暦356年のある日、教皇リベリウスは聖母マリアが「雪の降るところに私のための教会を建てなさい」と告げる夢を見た。同時に貴族のジョヴァンニという男の夢にも聖母マリアが現れた、という。次の日の朝、実際にエスクイリーノの丘の上に雪が降ったというのだ。しかもそれは真夏の8月5日のこと。
教皇リベリウスはその奇跡の場所に聖母マリア教会を建てたと言われている。
司式は、菊池枢機卿様、中野司教様(鹿児島教区)、山口神父様(横浜教区)の共同司式であり、お説教は中野司教様であった。公会議と神学的な話が非常に興味深かった。
その後、前教皇フランシスコのお墓で祈りを捧げた。
本当にシンプルな教皇様らしいものだと思った。
この素晴らしい機会に参加させて頂けた事を神に感謝!
今日の一句
疲れても 疲れ知らずの 希望の巡礼








