松山氏の作品のテーマは常に「Shin-on 」であるが、響きは同じであっても、それは心の音である「心音」であったり、新しい音、深い音、真の音...意味合いによって、概念もイメージも異なるものになる。
今回は「真音」と定義され、非常に興味があった。
ところで、このサン・ラファエレ・アルカンジェロ教会は、ドウモ脇にあるお御堂だが、雑踏の中、静寂「無」の世界へ引き込まれるような音のない世界なのだが、今回は中へ入ると、既に人がおり喋る声や、ドウモ広場から聞こえてくる音楽あり、違和感たっぷりであった。笑
お御堂のホームページ同様、常に年老いたシスター達が祈りを捧げているが、今回はこれから始まるイベントを楽しみにしつつ、プログラムを団扇のように仰ぎ、シスター同士でおしゃべりをしていた。彼女達の横を通ると「チャオ!」と笑顔で声をかけられた。
早速、松山氏とモンシニョール・ロッカにご挨拶。松山氏は我が家の愚息らが十数年前習っていた空手の先生でもある。またミラノに来て初めて、2歳の長男を連れて郊外の郵便局へ行った際、声をかけてくださったミラノで会った初めての日本人のご夫妻で、当時はわりにご近所に住んでおられたので、家まで送って頂いた事があった。
そして、モンシニョールはミラノ大司教区の司祭であり、アンブロジアーノ図書館の館長様でもおられる。モンシニョールとは昨年帰国中某所でお会いし、連絡先を交換していたが、同じミラノ在住であってもなかなかお会いする機会がなかった。一度ドウモの夕方のミサに出かけたら、その前のラテン語の晩課の祈りにモンシニョールがいらして、入れ違いの事があったのですよ、と言うと今度はサグレステイア(聖具室)にいらして下さいと仰られた。ドウモのサグレステイアなんぞそうそう見られる場所ではない。是非是非!とお願いした。
ところで、聖歌隊とオルガニストはミラノでもそこそこ有名な方々のようであった。
聖歌と書道が交互に行われて、その度に松山氏とモンシニョールのコメントが入った。
イタリア語の”vuoto”「無」、「空」とは、、西洋思想では単なる「存在しない」という意味になってしまうが、逆に東洋ではpieno「満」。深い精神的、存在論的な領域にわたる重要な概念だと説明された。師は神道や真言宗の造詣が深く、毎年日本へ行かれては研究されておられる方。
東洋哲学における「無」の概念は、単なる存在しないことを指すわけではなく、非常に豊かな意味を持っている。それをいうならば、個人的には、『天地創造』から、キリストの『死』と『復活』まで、同じことが言えるのではないか?と思うが、「無」の存在を深く理解することで、東洋哲学が提案する宇宙観や人間のあり方を新たに感じ取ることができるであろう。
「光明」という書を書かれてから、空手の「明鏡」という型の演武。両方とも「明るい」という漢字を書くが、「明鏡」は、もともと「鑑明らかなれば則ち塵垢止まらず、止まれば則ち明らかならざるなり」という言葉に由来し、磨かれた鏡には塵が付かないように、心の状態が澄んでいれば邪念も生じないという意味である。
また、空手において「明鏡止水」という言葉の一部として使われ、曇りのない鏡のように、邪念がなく澄み切った心の状態を意味する。これは、空手の鍛錬を通じて、精神的な集中を高め、心の状態を安定させることを目指すことを表しているのだろう。
最後に、この教会の院長様であり、モンシニョールの神学校時代の同期の友人でもあるという、司祭から挨拶があったが、なんと小林一茶の俳句が披露された。
“camminiamo sopra l’inferno guardando i fiori”
世の中は地獄の上の花見かな
世の中の残酷さや苦しみのなかで、一時の楽しみである花見をしているような、儚さや虚しさを表現している。
戦争が終われば、平和は訪れてくるのだろうか?小さな事であっても、個人の内面の平和がない限り、人間関係は良くならない。つまり一人一人の心の安らぎが、徐々に周りに伝わり、平和につながらなることを願いたい。
非常に哲学的な素晴らしい晩であった。
今日の一句
人生は 一期一会の 一筆書き






