最近出来たばかりのBFF バンキングの美術館に行かないか?と友人に誘われ出かけてきた。(最近美術館づいている!)
近現代美術のコレクションをはじめ、イタリアの芸術と文化の振興に力を注いでいる銀行なのだそうだ。(つまりお金があるってことだな!)
先月4月3日から始まったという”Baj + Milton” バイ・ピュー・ミルトン) ジョン・ミルトンの“Paradiso perduto”「失楽園」からインスピレーションを受け、描かれたエンリコ・バイの作品展。
エンリコ・バイとは、知らなかったのだが、政治的なコラージュや版画、絵画、彫刻などで知られるイタリア、ミラノ生まれのアーティスト。(1924-2003)
そして、「失楽園」とは、旧約聖書『創世記』第3章の挿話である。 蛇に唆されたアダムとイヴが、神の禁を破って「善悪の知識の木」の実である「禁断の果実」を食べ、最終的にエデンの園を追放されるというもの。
余談だが、「禁断の果実」はしばしばリンゴとされるが、これはラテン語で「善悪の知識の木」の「悪」の部分にあたる"malus"の誤読からきている。"malus"は「邪悪な」を意味する形容詞だが、リンゴも同じ綴りであるため、取り違えてしまったか、二重の意味が故意に含まれていると読み取ってしまったものとされるようだ。
ちなみに、この「失楽園」は、ダンテ・アリギエーリの「神曲」とともに、キリスト教文学の代表作として知られる。
予約はしておいたが、モダンなビルの受付で担当者を待ち、簡単な説明を受け、では地下の会場へご自由にどうぞ、と言って送り出される。
設置上、正面から写真を撮れず斜めから。地下へ降りる階段も肝心なところに大きな柱があり、正面から写真撮影出来ないのが、ちょっと残念だった。
ところで副題に、「自由のパロドックス」とあった。
パロドックスとは、一般的に「逆説」や「ジレンマ」の意味を持ち、真実や正解とされている物事に対して「定説に逆らう」という意味で使われることが多い。 哲学や数学の分野において、「間違いに見えても実は正しいこと」や「正しく見えても正しいと認識されていないこと」を説明するときにもよく用いられる。
「自由」をどう定義するのだろうか?その制限を否めば、衝動の奴隷となり、より自由になるどころか、無意識に導かれてしまう危険性がある。
「アダムとエヴァと動物たち」
彼らは何も身にまとらずも、羞恥することもなくエデンの園で動物たちと調和を保ち暮らしていた。アダムがイブに、神に感謝し従いなさいと言う会話を聞き、サタンの悲しみと妬みは募っていく。アダムはイブに、「(善悪の)知識の木の実は食べてはいけない。」と告げるが、サタンはある計画を思いつく。
天使ラファエルは、アダムに天地創造の物語を語る。
大いなるみわざは完成された。天使たちは喜び歌う。「ハレルヤ!」
イヴが知識の実を食べ、アダムはイヴが堕落したことに気づくが、二人が離れ離れにならないように実を食べるのだった。
友人が「あー、食べてしもうた。」とボソッと呟いた。笑
アダムとイヴの絶望と祈り。
「善悪」という感情は人間だけが持つもの。そのうち、「悪」は、私たち人間の進化の歴史に由来する一連の感情、衝動、行動なのではないだろうか?
利己主義、攻撃性、支配性...それは、ある意味生存のためにも必要で、それが今も私たちの無意識に「プログラム」されているのかもしれない。
逆に、「善」、道徳的良心とは、こうした衝動を認識し、それを制御し、より良い行動とも言える。それには、「知識」や「責任」、「神への従順」が重要だ。
と言いつつ、自己の意識と無意識、本能と認識の矛盾に葛藤する。
これが人間の本質、本性、いや人間存在の条件なのだろうか?
宗教的、と言うよりも哲学的な一時を過ごし、自分の生きる課題の一つを思い出さされた気がした。
最後にお土産まで頂いてしまった。実は、意味の深いイラストだ。
今日の一句
原罪と 楽園追放 失楽園















