最上のわざ ~ その6 悲しみを超えて | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

 

友人であり、同士でもあり、父親的存在でもあった空手仲間のF爺が永眠された。享年86歳。

 

だれしも、「生」があれば「死」があるわけだが、その終わりがいつ来るかはわからない。だから「死」が怖いのかもしれない。

 

彼は病気の苦しみに耐え、またその痛み、そして孤独の悲しみを捧げ、つらい試練に耐えて来た。私がミサに出かける、という度に、自分のために祈ってくれ、と言って来た。きっとそれは彼にとって心の支えだったのかもしれない。

 

私の周りには他にも、病気で苦しむ方々がおられるが、その人たちは逆に私の健康に関する疑惑さえも祈って下さっている。それは私にとって大きな支えだ。

 

上記「最上のわざ」では、

>手は何もできない。けれども最後まで合掌できる。 

愛するすべての人のうえに、神の恵みを求めるために――。 

 

とある。

 

「祈り」は目に見えないが大きな力を持っている。

 

ところで、死期が近づいてくると、様々な特徴が出てくると耳にしていたしネットでも読んでいた。どれもF爺に当てはまるものばかりであった。だから、周りの医療スタッフもわかっていたと思うが、その様子には波があった。しかし、明らかに、今より一週間前、そしてその一週間前の方が元気であった。その状態は確実にロウソクの灯が弱くなってきているような感覚そのものであった。

 

2日前、今までの波が嘘のように元気な時があった。その反面その翌日からのギャップが恐ろしかったが、本人は「パドレ・ピオの奇跡だよ!」といって部屋に飾ってあったパドレ・ピオの御絵を指差した。彼が宗教的に変わってきたこともここホスピスに入ってからの変化であった。

 

キリスト教では、「死」とは、「天の故郷に帰ること」と考えている。

 

人間は、果たすべき使命を帯びてこの世界に生まれ、その使命を果たし終えた時、天に召される。「死ぬ」と言うことは、その人があらゆる労苦に耐えてこの地上での使命を立派に果たし終え、天国に帰ったということなのだ。

 

F爺が苦しみに耐えている姿は、さすがにもう十分だ、と思った。昨日の午前中はずっと眠り続け、午後に訪問した友人の話を聞いてもやはり眠り続けていたという。

 

今朝、彼は小さな声で「助けてくれ!」と言った。もう限界だったのかもしれない。看護師を呼び痛み止めを打ってもらった。そこから再び眠りに落ちた。確実に「その時」は来ているように思われた。いい加減、F爺を痛みから解放させてください、と祈った。

 

親類が駆け付けたので、私は別件で出かけなくてはならず、連絡を取り合いましょうと言い、夕方また戻る予定でいたがその途中に訃報が入った。

 

実感はなかったが、痛みから解放され、もう苦しまなくても良いのだ、という安堵だけが残った。十分頑張った。お疲れさま。すべての重荷をおろしてゆっくり休んでください、と思った。

 

3年前に奥さんが亡くなられた時、しばらく彼は泣いていた。もちろんその気持ちはわかる。けれど、いつまでも泣いていたら、天国のその人を悲しませることになる、と思った。だから今、私たちも泣いてはいられない。

 

F爺、いろいろとありがとう。最後の最後まで空手や道場の話をしていたね。型を打っている夢も見ると言っていた。もっと段の型を学びたかった。良い道場にしてくれ...と。看護師たちもかなり、道場の話を聞かされていたようだ。日本人女性たちが面会に行く度に、「あなたも黒帯なのね?」と良く聞かれた。笑 

 

いつか私たちも、この世での使命を果たし終えて天国に行き、F爺や先に旅立つ人との再会の日がやってくるのだろう。その日を楽しみに、悲しみを乗り越えてゆこう。

 

感謝と祈りのうちに。