Domenica Gaudete 〜 喜びの主日 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

待降節第3主日。

 

年内最後の在ミラノカトリック日本人会のミサがあった。

 

この日は「喜びの主日」と呼ばれ司祭はバラ色の司祭服を着用する。

 

ミサはイタリア語で行われたが、私達共同体は、日本語の「聖書と典礼」の冊子を見ながら追った。そして第一朗読は日本語で行われた。

 

入祭唱は、「主にあっていつも喜べ。重ねて言う、喜べ。主は近づいておられる」(フィリピ4・4-5)。いよいよ主の生涯の始まりを思い起こす。

 

さらに第二朗読でパウロは同じ趣旨を簡潔に述べている。

「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(一テサロニケ5・16-18)

 

これこそ究極の福音とでも言うべき言葉ではないだろうか?

 

興味深かったのは、第1朗読の、ゼファニヤ書。

娘シオンよ、喜び叫べ。
イスラエルよ、歓呼の声をあげよ。
娘エルサレムよ、心の底から喜び躍れ。

 

イタリア語は

Esulta e acclama con tutto il cuore, figlia di Gerusalemme! 

歓喜し、心から称賛せよ、エルサレムの娘よ

 

となり、「躍る」という言葉はない。が、日本語の「躍る」は、 喜びや期待などで鼓動が激しくなる、という意味。それだけ喜びが大きいということだろう。

 

今日の福音では、群衆が洗礼者ヨハネに「私たちはどうすればよいのだろうか?」と尋ねる。

 

お説教では、日常生活の中には、不安や困難、恐れなどが多く、なかなか「喜んで」生きることは難しい。だからこそ、私たちは主に信頼し、委ねることによって、それを乗り越えていくことが出来るし、「喜び」を「分かち合う」事が重要だと説かれた。

 

その後、持ち寄り食事会が行われた。

 

ミラノ会本部の回廊に飾られたプレゼピオ。

 

 

ジャマイカのプレセピオ

 

 

ペルーのプレセピオ

 

インドネシアのプレセピオ

 

 

 

 

 

 

 

 

インディアン

 

そしてお食事

 

 

 
食事会も早い時間から始まり、また司祭たちは、午後からも会議やら別の場所でのミサ司式などもあり、早い時間にお開き。
 
一度帰宅し、夜から別の集まりがあったが、その合間に入院中の友人を訪問。ホスピスに入り、早2週間。日に日に弱くなっていくのが分かった。この夏に86歳を迎えた。喜怒哀楽が激しく、怒っていれば、「元気な証拠」と言って笑ったが、ウトウトしていることが急激に増え、息絶え絶え、声も蚊の鳴くようなささやきになって来た。
 
「昨日、コムニオーネ(聖体拝領)をしたよ。」と言っていた。たぶん十数年ぶりだったのではないだろうか。「もう神の御手にある。すべて委ねた」と言った。しかし、それはあきらめと言うよりも、非常に穏やかな感じであった。「少し怖い」とは、いったが、誰も未知の世界に少し怯むのは免れないことなのだろう。地上での別れは、非常に寂しいが、神を信じる私たちにとっては、3年前に亡くなられた奥様や彼の信頼する司祭の元へ行く...と思えば幸せなこと。
 
「今日のミサは、「喜びの主日」で司祭服はバラ色だったの。「喜び」を分かち合おうっていってたわよ。」と言うと、目を潤ませていた。
 
だれもが、自分自身の中に様々な「貧しさ」を持っている。また、周りにも様々な困難、「貧しさ」に苦しんでいる人たちがいる。そのことに心をむけ、手を差し伸べ、共に救いの喜びを深く味わい、主の降誕を迎えられますように。
 
今日の一句
主に希望 喜びに満ち 感謝と賛美