クリスマスを迎える1日1章 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

 

坊主も走る師走。

 

毎年年末はいくつかの仕事を掛け持ちし、本当に走り周り、慌ただしい生活をしている。

 

この時期、地域のパロッキア(小教区教会)の司祭は各家庭を訪問し祝福するが、ミラノは人種の坩堝。その人種の数ほど宗教、信仰の違いもあれば、無宗教の人も多いので、少なくともサンシーロ地区は、司祭の訪問を希望する家庭にしか訪問しない。

 

しかし今や、司祭も人手不足。ここ数年我が家には80代の司祭が来ることになっているが、どうも帰宅時間が微妙に遅れ行き違い?後から連絡し、最アポ。しかし、忘れられた?ということが2年続き、流石に今年はどうするか...あまりにも生活時間が、司祭の訪問時間とは合わないし、高齢の司祭を振り回すのもな...と思い希望は出さなかった。

 

逆にシッター先では、私しかいない時間に、司祭(まだ若かった!)がやってきて、シッター先家庭を祝福し共に「主の祈り」を祈った。苦笑

 

それにしても、慌ただしい。そう言った時こそ、心を失くさず、毎日を過ごしたい。そうでないと、鍵の中のハムスターのように、ただただ走って終わってしまう。

 

ところで、小学生の頃、通学していた学校の近くにあったプロテスタントの教会のクリスマス集会に出かけたことがある。記憶に残っているのは「ベツレヘム」という言葉と流れ星の絵だった。

 

前置きが長くなってしまったが、クリスマスに向けて、クリスマスを待ち望むためにも心の読書。

 

聖書「ルカによる福音書」は24章から成り立っている。医師であり、歴史家であったルカによって、綿密に歴史を順序立て、当時の異邦人(ギリシャ人)に福音を伝えるために書かれたものだ。

 

ローマ典礼の待降節を迎えた12月1日から、毎日1章ずつこの「ルカによる福音書」を読むと、最後の章読んだ夜(24日のクリスマスイブ)に、「主の降誕祭」をお祝いすることになる。

 

クリスマスを待つ「待降節」をアドベントとも呼ぶが、これはラテン語の”Adventus”が由来で「到来」「来臨」を意味する。

 

クリスマスを待ち望む。希望を持って待ち望みたいが、希望よりも失望の方が多いと言う人もいるだろう。


特に、コロナ禍によって、今も多くの人々が忍耐に忍耐を重ねる日々を過ごしている。(我が家の生活も元には戻っていない自転車操業だ。.)

 

健康の問題、医療の問題、経済の問題、家族の問題、仕事の問題、自分自身の将来の問題、夫婦関係、親子関係、友人関係...言ったらきりがないが、問題はそこらじゅうにある。

 

出口が見えない苦しみを味わい続け、一進一退を続けながら、本当に前に向かって進んでいるのかも時にわからなくなり、もうすべてを投げ出してしまいたくなりそうになることもある。

 

ただ忍耐を持って信じて生きる。信じてクリスマスを待つ。

 

この主を待ち望む者の生き方。それは、その希望が失望に終わることのないことを神の約束によって確信し、それゆえにその祝福を先取りしているかのようにして喜び、慰め、励まし、希望をもつことのできる生き方、それが信仰なのではないかと思う。

 

それをどう捉えるかは、人それぞれだが、信じてみること、そしてイエスという方の生き方に生(活)かされる。

 

私は、こちらの「聴くドラマ聖書」を聞いている。実力派俳優がドラマチックに聖書を朗読し、頭の中でドラマが展開するのだ。

 

 

 

流れ星に導かれ、主の降誕を拝みに行く。

 

子供の頃の記憶の「ベツレヘム」と「流れ星」に導かれて...人生は続く。

 

今日の一句

クリスマス 心の励み 私の希望