いろいろなものが出てきました
電話線とか電話帳とか葉書とか
パンチ穴のあいた前のパスポートとか
機内食の残り替えのパンツ食いかけのりんご乾いた腕の先
虫の入ったこびん
虫は死んでました、こびんの中で
落とした落としたと人々が私たちを呼びとめました
落とした落とした、拾え拾え、
それで、拾って
またもとの所にしまい込みました
ずるずるひきずって
そこまで行ったらそこは無人で
私たちは、無人の窓口で、待ちました
窓口があくという保証はどこにもありませんでした。
ずっと誰もこなかったらどうする、と弟がいいました。
そこに住む、と母がいいました、そして笑いました
(伊藤比呂美「河原荒草」より抜粋。)
最近、ゴスペルの練習では新しいメソッドを取り入れている、詩の朗読があった。
まずは口を開かず朗読。次に口は開けるが上下の歯は閉じたまま。それでも意外にはっきり聞こえるものだと知る!イタリアの言語療法では、滑舌をよくするためこのようなトレーニングをするようだ。
続いて一人ずつ一行毎高い声で早口で、逆に低い声でゆっくり、と。怒りを込めて...など我々は怪しい劇団員か?!と言うくらいメンバーの意外な面を見て笑いが止まらなかった。笑
これが歌うにどう関係があるのだろう?と言っている人がいたが、地元のパロッキア(小区教会)とは別の聖歌隊に参加していた時、口の開け方や発音をやたら注意された。しかし、日本人とイタリア人じゃ、骨格が違うのだから、口の中とて同様、イタリア人と同じ口の開け方が日本人にあっているのだろうか?と疑問に思ったものだった。
それよりも、意外に、上記の練習法は舌・口唇・顎などの筋肉や骨格の動かし方を意識出来、面白い。
ところで、この詩の意味と言うか背景が全くわからず。
この詩は、伊藤比呂美さんの2005年刊行され、36回高見順賞受賞された長編叙情詩「河原荒草」の一つの詩。
実際読んだわけではないが、夫と別れ、子供を連れてアメリカの別の男のところへ向かった母を、娘の目を借りて語っている作品だと言う。
実際は著者伊藤比呂美さんは娘が3人だったところ、作品中は2番目は男の子、長女にはアレクサという架空の分身がいるという具合に虚実が曖昧にされているようだ。
どのレビューも、著者の生死感、そして豊かな感性に触れていた。著者の感性を通じ、受け取る側の感性も融合し、更に視聴覚的に新たに想像力に磨きがかかりその内容は膨らんでいく。
良い悪いは別として、人によっては、それがリラックスになったり、逆にストレスになったり、どちらにもならず流し読みのなっていく人もいるのだろう。
個人的には、歌とは別に面白いと思った。人の話を聞いていて、内容はいいはずなのに、聞こえづらいと残念だと思う。また空手の礼などでも、言葉がはっきりせず、礼のタイミングが合わない人も多い。
正しい呼吸。そして安定した声量が意外に相手に安心感を与えるのだと改めて感じた。
今日の一句
詩の朗読 発声滑舌 表情筋