宗教の時間 無知の知 をの3 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

ミラノに戻って来てから、あちこちの教会のイベント?に出ている割に、自分の教会のミサに与れていなかった。
 
9月は新年度に当たり、教会の人事異動がある。
 
ミラノは人種のるつぼであるが、特に我がパロッキア(小教区教会)の信徒は移民が多い。またオラトリオは他宗教の子供たちも多く、そして、何かと問題も多いためか?地域のイタリア人は行きたがらないのが現実。私も数年ボランティアをやったが、最終的には怪我を負ったり、精神的にきつくなり離れた。心残りはあったが、今や仕事と空手の稽古があるため、物理的に無理。
 
話はそれたが、長年我がパロッキアに全身全霊を捧げられて来た主任司祭が、ついに異動となった。
 
そのお別れ会が今週末行われるため、聖歌隊の練習が行われた。通常水曜日だったが、なぜか火曜日になり、21時からの練習は、メンバーの高齢化により20時半に変更されていたではないか!
 
私は火曜日の夜は空手の稽古があり、20時半まで。終了後大急ぎで駆け付けても21時をすぎる。しかし、今回は新しい主任司祭も挨拶に来る、と言うから遅れて駆けつけた。おにぎりを作って行き、仕事の後に2個.稽古の後に2個、移動しながら頬張った。味も満腹感もありゃしない!
 
新主任司祭は今までのドン(教区司祭のことをそう呼ぶ)より一回り以上若い40代半ばの司祭であった。南米、スペインで宣教され、ミラノ市内は14年間あちこちのオラトリオ中心に若者と触れ合ってきたと言いエネルギッシュではあった。
 
練習後、直接挨拶。「日本って興味がある国なんだ。」とドン。「先進国であるが、国民の多くはアーテアなんでしょう?何をどう思って生きるの?」と言う質問であった。
 
なかなか興味深い質問であった。確かに現代の日本、どれくらいの人が宗教を持っているか?いや信仰を持っているか?はわからない。ちなみにカトリック信者は人口の1%にも満たない.忙しすぎる生活に信仰の必要性を感じない人も多いのかもしれない。むしろ虚無にならないか?自分だけを信じて生きていくのか?
 
「人は常に何かを求めてはいると思う。それが神かはわからないし、神や宗教、信仰について話すのはタブー感がある。」と答えた。するとドンは”「come vivono?”どうやって生きていくんだ?」と 司祭とはいえ、純粋に沸き起きる疑問のようであった。
 
聖歌隊の練習後、夜10時を過ぎており、仲間のお年寄りを入り口(パロッキアに隣接したシスターの経営する学校)にまたせてしまう形になってしまったので、その話はまたいずれ!と言って別れた。
 
それ以降、「アーテア」を無神論者と一言でとらえてよいのかどうか脳裏を巡った。
 
無神、有神、そもそも神ってなに?となるが、日本の神様は、「神道」抜きには語れないであろう。そして、自然物を神聖化した自然信仰であるし、神社に多く祀られているのが、「古事記」や「日本書紀」の神話に登場する神様だ…。
 
初詣となれば、全国で数千万人が正月に寺社を訪れる。葬儀といえば、相変わらず仏式が圧倒的であるし、お彼岸に墓参りをする人も多い。結婚式に至っては、いまだに教会式が多いのだそうだ。だからと言って日本のキリスト教徒割合は人口の1パーセント程度の超少数派。実は、無神論的というより、宗教混淆的といったほうが正確かもしれない。
 
かといって、信仰の有無を聞かれれば、多くの日本人は否定するのかもしれない。信仰よりも実践派?
 
といいつつも、イタリアもそれに近くなりつつあるのかもしれない。子供が生まれ、洗礼を与える人も減ってきているし、公共要理であるカテキズモは受けさせても、それが終われば、はい、さようなら。我がパロッキアも堅信の儀が終わった翌日から、子供とその家族は来なくなる。なんだかな…。
 
「信仰」というものは、決してある特定の時間に奮い立たせるものでもなければ、ある特定の場で祈りを唱え、手を合わせたり、難しい教義に精通することでもないだろう。ましてや大金を取られるとか、人間を信仰するとかではない。
 
今後またドンと信仰談義が繰り返されるのだろうか?
 
こちらは、日本のある司祭とメールのやり取りをしていた時に言われた言葉。
 
『…キリスト教は、奇跡を云々する教えでもありません。キリストの言葉に活かされる。生かされる宗教。なので、観念的なものでもなく、実際にキリストとの出会いがなければ…生きたキリストとの出会い。ワケのわからない宗教。…この男の言葉にこそ、人間の生き方が示されている。それだけで充分信じるに値します。』
 
イタリア語に翻訳してメモっておこう。
 
今日の一句
司祭との 信仰談義 希望の拠り所