宗教の時間 〜 無知の知 その2 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今朝、次男が「なんで僕はクリスチャンでもないのに、宗教の授業を取らなきゃいけないの?」と言ってきた。

 

イタリアの学校は「宗教」の時間は選択制。嫌なら選ばなければいい。けれど、私個人としては、信者である無しに関わらず、知識として取るのは無駄ではないと思う。信者であれば、カテキズモ(カトリック公共要理)以外で学ぶ内容が沢山あるし、信者でなくても、知識は宝だ。それでもイスラム教徒の子供や、たとえカテキズモを受け、堅信まで受けていても、宗教の授業を受けない家庭は多々ある。まあ、それも一つの考えか?

 

長女何ぞ、高校を卒業するまでの間、トータル13年間宗教を学び、ヴァチカン組織に関してもかなり詳しかった。一時は、教会からすでに離れていつつも大学で「神学」を学びたいと言い出した時もあったくらいだ。(また彼女の高校の副校長でもあり宗教の教授が素晴らしかったということも一因だが)私なんぞ足元にも及ばない。ただし、世界のいろいろな宗教を学ぶのではなく、カトリック中心。それもどうなのおかなあと思うけれど、私だって受けてみたいわ。笑

 

一つ言えるのは、「宗教」と「信仰」は別物。

聖書をただ読むだけだと、知識。けれど、味わって心が動けば、それは信仰の始まり。

 

けれど、信仰を持つことは、艱難が無くなるものではなく、周囲の状況が少しも変わらずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。そして深い平安と感謝を与えて下さる。そこまで、宗教の授業は教えないだろう。

 

「嫌だな、今日の宗教の時間...」次男はそう言って出かけて行った。金曜日の最後の授業(12:40ー13:30)で、選択していない子は、早く帰宅できるのだそうだ。なんだ、それだけの理由か?!脱力〜

 

イタリアにいて、素晴らしい音楽や絵画、建築物を見るにしても、キリスト教というバックグラウンドを知らない限り、楽しみ方は何倍も違う。もったいないと思うのは、私だけだろうか。 とにかく、宗教と信仰は違う。 また悟りも求めて歩むものではない。悟りは私たちの心の中にあるものだから。

「無知の知」は向上心につながる。自分が絶対だと誤解すると、争いごとや新興宗教に走ってしまうのではないだろうか。

 

私は、欲張りだからなんでも知りたい。「知る」ということは、「違いがわかること」。「違いがわかる」ということは、「興味を持った」ということ。「興味を持つ」ということは、「楽しい」こと。だから、知ることは楽しい!!毎日が楽しい❤️

 

 

「無知の知」その①

http://ameblo.jp/sofiamilano/entry-11743368935.html