帰国後初の日本語ミサに与った。
日本のカトリック教会は、2022年12月27日から新しい式文によるミサが実施されているが、月に一度行われる在ミラノ・カトリック教会ではいまだにミサ式文は以前のまま。
普段アンブロジアーノ典礼のミサに与っているわけだが、基本ミサのイタリア語はラテン語がベース。前々から日本語ミサの日本語訳は微妙に違うなと感じていたが、今回ラテン語のオリジナル版に忠実に訳されることになったが、それはそれで違和感。慣れのせいか?
いずれにしても、新たになった式次第を追いながらのミサとなったが、たまに迷子。たまに1人で古い言い回しを口にしてしまう事が数回あった。
本体B年のこの時期はマルコによる福音書が読まれることになっているが、今日から5週、ヨハネ6章「命のパン」がテーマとして読まれる。(主任司祭によれば、イエスが本当に示したいこと(愛の本質)がヨハネ6章に描かれているという)
今日は、いわゆるイエス・キリストが5つのパンと2匹の魚を分け与えて空腹の5000人を満腹にさせたという「パンと魚の奇跡」の日であった。
しかし、聖書には、パンや魚が増えた、とは書いていない。神の力によって人の命が満たされる。
ところで、今の世の中、時間やお金をいかに無駄なく、効率よく生きるか?ということに重きを置く傾向にあると思う。私もまさにその傾向があるが、ミサの冊子である「聖書と典礼」には、
>欲しいと言われたものを「惜しみ無く」与える時、そこには限りなき優しさが満ちています。
>しかも、パンと魚の与え方の何と大らかに豪快だったことか。そこにあるのが「惜しげ無さ」です。
とあった。
私には、「惜しみ無く、惜しげ無(く)い」心はあるだろうか?と考える。
効率ばかり考え、自分が得をしたいとは思わずも、正直、損はしたくない。優しさと豪快さがなければ、愛が芽生える余地もないのだろうなあ、と顧みた。
お互いに惜しみ無く与え合う。惜しげ無く与え合う。この優しさと豪快さに世界が満ち溢れた時、私達は恒久的で地球的な平和を手に入れることができるのだろう。
今日の一句
小さなパン 祈りによって 大きくなる
