昨年の今日、骨折した。
空手の教士が日本から来られ、特別稽古の初日の日、本来は仕事の帰りに直接道場へ向かうのに、その日は微妙に時間的余裕があって、帰宅してから自転車で向かう途中だった。
普段家にいない夫が帰宅しており、荷物も多かったし(大きなバッグに釵や棒も抱えていた)珍しく「送って行こうか?」と声をかけられたのに、大丈夫と言ってた家を出て数メートルのところで、棒が自転車の前輪に絡まり転倒。足が地面に触れた途端にグシャリ。あの音は忘れられない。
あの時、まっすぐ道場に向かっていたら?あの時、素直に夫の車に乗せてもらい向かっていたら...始めはよく考えた。
その時は怪我はせず稽古は受けられたかもしれないが、また別の機会にやったかもしれぬ。しかもあれが、もっと通りの激しい場所で起きていたら?骨3本じゃすまなかったかもしれないし、下手したら命だって危なかったかもしれないと思うとゾッとしていたが、その後あの自転車を次男が乗り回していたが、あっけなく盗まれてしまった。(もう乗るな!ということだったのだろうか?)
その後、次男は知人より新たな自転車を譲り受けたが、私はあれから自転車に乗っていないし、ミラノ市内を走るのが怖くなった。
前置きが長くなったが、今週火曜日再び教士が来伊。前夜から特別稽古が始まった。この夏、帰国する際、全国大会が横浜で行われるので出場する。特別稽古初日は、全国大会参加者のためのコースだった。そして今晩は、黒帯と古武道の稽古2時間。
久々いい汗をかいた気がする。最近はじとっと汗をかき始めても、その後指導側になってしまうと汗も引っ込んでしまう。
身体操作は難しい。人に指摘するのは簡単だが、いざ自分になるとなかなか出来ない。
千日の稽古をもって 鍛となし、 万日の稽古をもって 錬となす
それはただただ自分と向き合い、回数をこなすのみ。打った分だけ、練った分だけ型に出る。
門下生の型を見れば、その人の陰の努力がとって見れる。だから自分の努力など教士や上の方から見れば透けてしまっていることだろう。
そして、例えばウオーキングが体に良いと言っても、ただ歩くだけでは意味がなく、歩き方や速さが重要。
何事も続けることは大変なこと。しかし、ただ続けるだけではなく、空手道訓同様、 「己をみつめ、 己を正し、己を磨くものである。」なのだ。
ところで最近、1968年夏、「明治百年祭」を記念しプレスリリースされた、沖縄県空手道連盟推薦『空手道讃歌』と言うのを見つけた。
琉球空手とは、もともと一般庶民に普及したものではなく、琉球王朝の拠点首里城を警護する武士の武術であった訳で、そのあたりを念頭に入れつつ、歌詞に込められたその哲理を慮ると、更に探究心が湧いてくる。
日々精進。
今日の一句
空手道 己をみつめ 磨く道
- 空手道讃歌. (作詞:西条文喜/作・編曲:大沢浄二/唄:城卓矢)
- 1.ああ燦然と陽の光
見よ群青の海の色
明(さや)けき嶋の闘魂が
正義が生みし無手の拳
心を鍛う身を鍛う
ああ沖縄の空手道
2.ああ我れ襲う敵あらば
守禮の邦に神技あり
鉄の拳は敢然と
肉を斬らせて骨を搏つ
心を護る身を護る
ああ沖縄の空手道
3.ああ天孫氏古代より
平和の鐘は鳴り伝う
攻めるにあらず防ぐ技
五體が武器ぞこの空手
心を正す身を正す
ああ沖縄の空手道 -
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