「灰の日曜日」には、死と痛悔の象徴である灰を、頭や額に受ける「灰の式」が行われるが、ここでは、前年の「枝の主日」(復活祭直前の日曜日)に祝福されたオリーブの枝を燃やした灰が使用される。
ミサ閉祭後、回心のしるしとして灰を頭に受ける行列ができた。聖歌”Purificami o Signore” (詩篇51篇)を歌った。これは、「罪とゆるし」の歌であ。
詩篇はダビデ王によって書かれたもので150篇にまで及ぶ。彼は自分の悪事を認めて後悔する内容の詩が7つあるとされているが、特に51篇は、信仰を揺さぶる内容ではあるが、罪を悔い改めた人の心を慰めるために書かれたものだと言われている。
ダビデは、自分の心の中にある救いようのない罪深さを直視し苦しむが、そこからも神の力と哀れみを見出し、その結果、どのような罪でも、へりくだって神に近づくのなら、神に赦された者は、清く生まれ変わる希望をあたえてくれる。
また、本日ミラノのドウモでは今年の復活前夜祭で洗礼を受ける洗礼志願者の洗礼志願式が行われた。79人の志願者のうち、31人がイタリア人。16人がアルバニア人、4人がブラジル人、4人がペルー人。全体の3分の1は16歳から30歳の年齢であったという。
ところで、午後からは月一度の日本人カトリック会のごミサもあった。ミサのはしご!
こちらはローマ典礼であるから、同じ「荒れ野での誘惑」に関する福音箇所もマルコ1ː12-15と異なった。
『さて、イエスは霊に導かれ荒れ野に行かれた。それは悪魔によって試みられるためであった。』(マタイ4ː1)
『霊はただちにイエスを荒れ野に追いやった。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。』(マルコ1ː12-13)
これらの誘惑を、イエスはなぜ受ける必要があったのだろうか。他にもルカの福音書でも誘惑のシーンがあるが、どの福音書にも共通しているのは「霊」に導かれているということ。神の霊、聖霊がイエスを導き、この荒野で悪魔の誘惑を体験させたのだ。つまり信仰による試練。通らなければならない道だったのだろう。
ミサのしおり「聖書と典礼」によれば、聖霊は、洗礼の時イエスに降り、イエスの活動を常に導いている。
ちなみに40日の「40」という数は、試練や苦しみを表す、という。そういえば、私の洗礼は「40」歳の時。不惑の40???苦笑
「主の祈り」の中で私たちは祈る。
「私たちを誘惑に陥らせず、悪からお救い下さい。」
私達人間は、日々困難に出遭い、そして誘惑を受けているが、弱いから、誘惑に負け罪に陥りがちだ。また、たとえ法を犯すような大きな罪ではなくても、赦しの秘跡を受け、赦されてもそれでも同じことを繰り返しがちなのが人間だ。
人間は弱い。本当に弱い。
信者の毎日は、悪との闘い。誘惑を退けるための闘いだ。
悪・誘惑に打ち勝つ聖なる霊が「聖霊」。そして神は忍耐強く待つことを通し、赦す意志を示される。
この四旬節、聖霊の恵みに信頼し、悪に打ち勝つように祈りましょう。
今日の一句
四旬節 荒野の誘惑 Liberaci dal male!