来る1月28日(日)は、ミラノのアンブロジアーノ典礼は「聖家族」の祝日。
「長崎の鐘」の永井隆博士とその一家の信仰に関する講演会が開催される。
1月28日(日) 15時より
Parrocchia Santi Martiri Nabor e Felice
Via Tommaso Gulli 62, Milano
現在、日本ではカトリック信徒運動の共同体が、永井博士と緑夫妻の列福列聖調査に関し、長崎教区の承認のもと、最初の予備調査を進めようとしている(進んでいる?)ようで、その共同体がイタリアでも熱心に動いているというもの。
元々は2003年に長崎で行われた「カトリック医療関連学生セミナー」で、「永井隆を学ぶ」と言うのがテーマだったそうだ。
医者であり、カトリック信徒であり、また被爆者でもある永井博士は、長崎では誰もが知るところであると言う。そして被爆地長崎での開催で、その永井博士を日本に、世界に発信できたらとの思いが込められていたという。
以前も書いたが、永井博士の妻、旧姓森山緑は、隠れキリシタンの家庭で、彼女が生まれ育ち亡くなった家は、森山家代々7世代が住んでいた場所だと言う。森山家はその隠れキリシタンのリーダー的存在で、武士が支配した2世紀にわたる非合法で残忍な迫害の間、カトリック信仰を伝え約3000人の信者を育ててきたそうだ。
永井博士自体は、学生時代、無神論者であったそうだが、26歳の時にカトリックの洗礼を受け、翌年、下宿先の一人娘と緑と結婚をする。
永井博士は放射線医学を専門とし、結核の早期発見に力を尽くしたが、逆に何万もの人のレントゲンをとって白血病にかかり、原子爆弾が長崎に落ちた時には、愛する妻を失い、自らも大けがをしながら、懸命に被災者の治療に当たった。
浦上の隣人たちが被爆で病床にあった博士のために二畳一間の木造の家を送り、そちらを「如己堂」と名付けられた。この家を建ててくれた人々の温かい心を受け留め、自分もそのように生きようと聖書の「己の如く隣人を愛せよ」の言葉から名づけたのだという。
博士は、43歳で永眠される日まで、書斎兼病室として2人のお子さんと共に、3年程そこに住んでおられた。床に伏せることも多かったが、平和と愛のために祈り、病身の命をけずるように執筆し、得た収入は地域の復興に寄付し、自らギリギリの貧しい生活をしつつも、キリスト者として模範を示された。
講演会が楽しみだ。
今日の一句
なぐさめ 励まし 長崎の
あゝ 長崎の鐘が鳴る
↓『長崎の鐘』は青空文庫で読めます。↓