主のご降誕おめでとうございます。
昨日は日曜日だったので、日中待降節第6主日のミサがあり、夕方18時と0時にキリスト降誕の深夜ミサが行われた。18時はお御堂いっぱいの人であったが、0時もそこそこ人が入っていた。
毎年25日のミサの後に、クリスマスを一人で過ごすお年寄りや生活難の方々を教会では、食事に招いている。
ところで、「クリぼっち」という言葉を聞くが、「孤独は山になく、街にある。1人の人間にあるのではなく、大勢の人間の『間』にある。」といったのは、哲学者の三木清。
イタリアを始め、欧米ではクリスマスは家族や親類が集まって過ごす時だから、一人であれば、尚更孤独を感じてしまうことだろう。特に高齢者にとっての孤独は敵である。
空手仲間のF爺は2年前に奥さんを失くし、子供も親類もほぼいない状況。今年で85歳を迎えた。昨年に癌が発覚し、それでも奥さんとの約束で黒帯を取得。今年に入り、化学療法が始まり、ほとんど稽古は見学のみだが、それでも道場に出てくるのは、彼の生きがいでもあり、使命と考えているようだ。また、新たな型を覚えることも奥さんとの約束であるが、とにかく道場の仲間は家族だ、と言っているくらい仲間を大切に思っているし、私達門下生も彼をかけがえのない存在だと思っている。
しかし彼は復活祭、夏休み…人がいなくなる時期をすごく嫌がった。実際復活祭は幸か不幸か入院中であったので、本人は不服であったようだが、周りの友人たちはちょっと安心で、逆にできる限り面会に通った。
このクリスマスはすべて受けいれたのだろうか?寝て過ごすからいいよ、と言っていたが、内心は寂しいに決まっている。
降誕ミサが夜中にあったので、夕方友人と彼の好きなケーキ屋さんでお菓子を見繕って出かけると、ちゃんとお茶の準備が出来ていた。(それでも私たちの到着前までは泣いていたらしい。)
化学療法も無事終了。今後は免疫療法に変わるらしいが、かなり元気になっていた。やはり「病は気から」だろうか?体が弱るからか?そういう時は、ネガティブなことばかりいうが、その逆に精神的に滅入る時はやはり体調も悪い。それが声も明るく、すたすた歩けていた。其れだけでも嬉しい限り。
またクリスマス直後一緒に食事に行こうと約束をした。
確かにイタリアのクリスマスは家族色が強く、イタリアに来た当時、また子供たちが小さい頃は寂しく感じたもの。特にこの時期夫はいつも出張中。今や慣れっこだが、母子でミラノに居残りはきつかった。
夫は今回もやっと日本から戻って来た、と思ったら、日本からツアー客にジョインし、欧州を渡り歩いている。
今回は長男が戻ってきているので、3人で過ごした。今日は長男が料理を準備し、昼からたっぷり3人でワインを飲みながら、フルコースを食べた。長女は昨夜彼とやってきたが、風邪気味で調子悪いと言って帰って行った。普段長女は彼の両親やら義兄嫁の親とも過ごすと言うが、今回は彼らの旅行中で不在。こんなに気が楽なクリスマスはない!と言っていた。笑 (大勢でいればいたで、気疲れするものもあるのは事実)
キリスト教の信者の有無は別として、周りが家族で過ごす季節に一人でいるか、家族または大切な人と一緒かどうかで精神的に過ごし方も変わってくるのだろう。
自分も気づくと孤独な時期を迎えるかもしれない。だからこそ、孤独な人に寄り添えるようにありたいと思う。

