ペルジーノ 「主の洗礼」 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

昨日、やっとミラノ市庁舎・マリーノ宮で行われているペルジーノの「主の洗礼」を観てくることが出来た。

 

市庁舎の前は長蛇の列、何時間待ち?!とゾッとしたが、実はこれは化粧品のチェーン店であるSephoraのクリスマスプロモーションのようで、よく見ると若い女子ばかりの列!

 

 

実際ペルジーノの方は夕方17時近くであり、穴場だったのか2グループ待ちだったので20分くらい並ぶだけで済んだ。

 

盛期ルネサンスのイタリアの巨匠Pergino/ペルジーノ(本名Pietro Vannucci/ピエトロ・ヴァンヌッチ)。今年没500年記念を迎えた。

 

 

各グループ、学芸員がペルジーノの生涯、作品などについて解説。

 

 

 

 

 

この映像の後、次の間の奥に「主の洗礼」が飾られているのだが、その前に細く切り刻まれた暖簾のようなカーテンには水が流れる映像が流れていた。

 

(ヨルダン川でいとこヨハネから洗礼を受けられたイエスは、)水の中から上がるとすぐ、天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降ってくるのを、御覧になられた...。と聖書にある。(マルコ1:10)

 

まさに滝の水のカーテンをくぐると「主の洗礼」に出会えるのだ。

 

 

いよいよ今晩は主のご降誕を迎える。その30年後の洗礼の祝日は典礼上1月7日となっている。

 

「主の洗礼」。

 

ヨハネは水で洗礼を授けていたが、イエスは聖霊によって洗礼を授けられた。それは、ヨハネの洗礼は「罪の悔い改め」であるのに対し、イエスの洗礼は「イエスと結ばれる」ためであった。つまり、父である神の子となり、その人の中にイエスが共にいて下さるということ。

 

あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者(マルコ1ː11)

 

この言葉こそ、聖書の要約であり、私たち一人ひとりに語られている言葉なのかもしれない。
 

イエス・キリストに結ばれて、一人ひとりが、かけがえのない「私」になってゆくこと。そして互いに互いをかけがえのない存在として大切にしてゆくこと…。これこそが神さまのみ心なのだろう。

 

この言葉を私たちがより深く、またより喜びをもって受け入れることができますように。

 

クリスマス、おめでとうございます。