座禅と黙想会 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

2023年も気づくとあと10日を切っていた!

 

今年は週末とくっついた連休が多いので、カレンダー上まだクリスマス後に数日働くのだが、昨日シッター先の家族をクレモナに見送った。次に会うのは16日後。いつものことだが、出発までは大騒動。毎週金曜日の夕方、彼らを見送るとホッとする。

 

そして昨日年内最後の空手の稽古も終了。年始の千本突きでは一部の黒帯が古武道の演武をするのでその練習やら、新たに覚え始めたた二段の型を練習しなくては、記憶が飛んでしまいそうだ。型は打つだけ打って体に染み込ませないといけないが、一応全体の稽古納めを終え、これまたホッとした。

 

とはいえ、今年は忙しすぎた。5月に骨折し、2カ月身動きできず、それはそれで色々考えることも多かったし、引きこもり生活もそれなりに楽しんだ。そして、9月に入り、いざ動き出したら、息ゼーゼー。体力は落ち、今までとは同じことは出来ないと思い知らされている。

 

しかも、問題が次から次へと身に降りかかるのだが、その対応やら心の切り替えが鈍くなり、何かと心を引きずるようになってきた。年齢のせいなのか、それとも忙しすぎるのか?

 

精神的に飽和状態でクリスマスは迎えたくないと思っていたが、偶然先週の日本人ミサでお会いした司祭に、座禅と黙想会を行うが来ないかと声をかけられ出かけてきた。

 

約20分の座禅を2回。その間に心を整えるため部屋の中をゆっくり歩く。雑念ばかり。けれど、呼吸を意識するとそれさえ消えていく…。

 

その後福音書を読み、黙想と分かち合い。来ていた人は皆イタリア人。一度空になった心に福音が染みていく感覚。心身共に飽和状態になったら一度空にしてリセットしなければいけない。晩課の祈りと戦争などの災難に苦しむ兄弟姉妹のために祈りを捧げた。

 

ちなみに朗読したのは、マタイ7章。

 

1   「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。

2   あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。

3   あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。

4 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。

5 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

 

▽求めなさい、探しなさい、門をたたきなさい!

8   だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。

9   あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。

10 このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない。」

11 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。」

 

心に余裕がなくなる時、人は他人を裁きがち。まさに今の私がそうであると、はっとした。赦しの秘蹟に与った。

 

司祭は、「清らからであること、清潔であることは理想であるが、常にそうあり続けることは難しい。けれど、汚れたら、愛のわざと赦しを乞うことで、清らからになり、それを繰り返していくのです。そこには無我が必要です。水はそこにとどまりません。水は常に流れていくのです…。」と仰った。

 

ところで、先週の「喜びの主日」のお説教では、「喜ぶ」感情は人生において大事。とくに人間関係には重要だと聞いた。しかし、それは聖霊のしるしがないと感じられない。

 

人は、「楽しみ」を求めがちだけれど、「楽しみ」とは、それが自分中心あることに対し、「喜び」とは、自分の外に輝き、他者とも分かち合えるものだろう。そこから生じる満足や快感が、他者をも豊かにするものとなる。

 

喉が腫れ、嚥下痛があるが、座禅と黙想会に行けて良かった。リセットするためには、環境の変化も必要だが、時に立ち止まり、「無」になって心の無駄なものをそぎ落とすことも必要だ。

 

何事も喜び、喜びをもたらすことのできる人間に一歩でも近づけますように。