今月、多くの友人・知人で長く患ってこられた方々が帰天された。葬儀も数回参列した。
直接知っている人、付き合いのあった人、そこまではいかない人...さまざまだが、それでも自分に重ねて考えてみたり、残された方々のことを思うと胸が痛み、自然と涙が出た。
ところで、ある葬儀の最後に、教会の友人が詩を朗読されていて、気になったので、あれは何の詩であったのか?聞きに行った。彼女は長女のカテキズモを受けていた時の、カテキスタであったのだが、昨年ご主人を失くされた。
「聖アウグスティヌスの詩なのだけれど、父が亡くなった時に、朗読してくれた人がいて、それから気に入って、友人や自分の夫の葬儀でもこれを読んでいるのよ。次のミサの時に、詩のコピーを持ってきてあげるわね」と言って持って来て下さった。(文面は上記画像の横のもの)
死は何もない。
ちょうど反対側に切り替わったところ。
まるで隣の部屋に隠れているような気分だ。
私は依然として私であり、あなたは依然としてあなたである。
お互いにとって以前の私たちは今でも同じ。
あなたがいつも付けてくれた、馴染みのある名前で私を呼んで欲しい。
いつもと同じように愛情を込めて私に話しかけて。
口調を変えたり、厳粛な表情や悲しそうな表情をしたりしないで。
私たちが笑ったことや、一緒にいた時にとても好きだった小さなことで笑い続けて。
祈って、笑って、私のことを思って欲しい!
私の名前をいつも昔から馴染みのある言葉にしておく。
少しの影や悲しみの痕跡もなくそれを口に出して。
私たちの人生は、これまでと同様すべての意味を保持している。
以前と同様で、途切れることのなく続く。
私があなたの視界から離れているからといって、なぜ私があなたの考えやあなたの心から離れなければならないのか?
私はそれほど遠くにいるのではない、私は反対側、角を曲がったところにいるのだ。
安心して。すべてうまく行く。
あなたは私の心を再び見つけ、その浄化された優しさを見つけることだろう。
あなたが私を愛しているなら、涙を拭いて泣かないで。あなたの笑顔が私の平和。by聖アウグスティヌス
調べていたら、19世紀後半オックスフォード大学の神学の教授であったヘンリー・スコット・ホランドという人の著書で"Death is not at all"(邦題「さよならのあとで」)というのがあり、聖アウグスティヌスの上記の詩と非常に似た詩があるのだが、 聖アウグスティヌスは430年没。 聖アンブロシウスの説教によってキリスト教に目覚めたくらいで、時代的にいったら、ずっと聖アウグスティヌスの詩の方が古いわけだ。
いずれにしても、この世を去った「私」からのメッセージという内容だ。大切な人を失い、悲しみに打ちひしがれながらも、小さな希望が見つけられる詩ではないだろうか。
ところで、仏教用語に「生老病死」という言葉がある。
生まれること、老いること、病気になること、死ぬこと。それが4つの「苦」なのだそうだ。
しかし、苦は「苦しみ」という意味ではなく「自分の思うようにならないこと」の意味で、生きている限りは避けることのできない、この世での人間の苦悩のことを言うという。
最近は、ほぼ寝たきりになっている空手仲間のF爺のところに行くと、膀胱を摘出し、現在二つのチューブがついているため、何かと不自由がある。しかも、孤独も加わり、肉体と精神が思うようにならないという、五蘊盛苦の中で、いかに楽しみではなく「喜び」を見出すか…と語ってくれた。
余談だが、この夏は、病気を克服した人、年老いて孤独な人、現在も闘病中の人とも数人会った。年老いても、病気になっても、痴呆や障がいがあっても、生きる意味や価値が色あせることはない。
「死にざま」は「生きざま」。老いと病の真っ只中を生きるその方々にそれぞれの色がある。
楽しいこと、嬉しいこと、幸せなことを人は願い続けるが、一生それが続くわけではなく、「生老病死」という避けられない苦しみがいつかやって来ると思うと、やはり不安だし怖いと言うのが、人間正直なところだろう。
しかし、以前も書いたことがあるけれど、信仰を持つことは、艱難が無くなるものではなく、周囲の状況が少しも変わらずとも、自分自身に艱難を乗り越える力が与えられる。そして深い平安と感謝を与えて下さる。
>私たちの人生は、これまでと同様すべての意味を保持している。
以前と同様で、途切れることのなく続く。
いつか自分が死を迎える日を漠然と考える時、やはり周りの人に感謝して逝きたいとは思うけれど、どうなるのだろう。それもすべて日々の積み重ね。だから毎日を大切に生きることが一番だということ。
何かと考えさせられる8月である。
