RIP 永遠の安息 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

マリア・バンビーナこと、幼きマリア修道会のシスター・ワンダが8月8日にミラノにて帰天され、葬儀ミサに参列して来た。

 

1984年来日。愛知県瀬戸市の聖カピタニオ女子校にて39年間奉仕された。何年か前、イタリアに帰国され癌の手術を受けられたと聞いていたが、その後日本に戻られ、今年の3月まで上記女子校の理事長をされておられた。

 

先月の初旬帰国され、しばらくしてホスピスへ入られたと聞いた。

 

お会いしたのは、治療のため、または会議のため帰国中の数回であったが、とても笑顔が優しく、お人柄がそのまま表れていらっしゃるようであった。

 

 
葬儀ミサのしおりは、桜の画像がバックに美しくアレンジしてあった。
 
ミサの最後に、現在の総長が、日本出張へ行かれた際の思い出を話された。
 
『シスター・ワンダ、貴女は桜の花について説明して下さいましたね。日本文化にとって、桜は人生の美しさとはかなさの象徴であり、しるしであると…。
 
そして花びらは、ひらひらと舞い、地上に留まり、淡い色の痕跡を与える。それはいずれ消え去っても、実りは残る。シスター・ワンダ、貴女は生命の芽であり、枝から、花から放った小さな花びらであったことを喜びなさい。なぜなら、あなたが与えたものは多くの人にとって実りとなるからです。今日、貴女の姉妹である私たちに思い出させてください。そして、信じ、与え、希望することができるよう支えてください。感謝。』
 
ところで、桜といえば、父が亡くなった際、お通夜でお坊さんもお説教で触れられていたことを思い出した。

桜散る 残る桜も 散る桜 by 良寛
 
今どんなに美しく綺麗に咲いている桜でもいつかは必ず散。人生そのもの。
 
しかし、そこで希望を見出すのは、やはりカトリックの教えとの違いなのだなあ…と同じ桜の話を葬儀でしつつも発想の違いを何気に考えてしまった。

 

そして、ミサの後、棺が車で運ばれる際、日本から参列していたグループが「いつくしみ深き」を歌われていた。「いつくしみ深き(聖歌657番/讃美歌312番)」は、日本ではキリスト教の葬儀で歌われることが多い曲だと後から知った。

 

こちらは、聖体拝領の時に歌われた"chi ci separarerà" 。

 

誰が私たちを主キリストから引き離すことが出来るか?という詩の曲で、よく葬儀で歌われるが、私はこの曲を歌うとボロボロ涙が止まらなくなってしまう。

 

 

 

 

私の生涯は祝福された。

この世の祝典に招かれて来た。

琴を奏でるのが私の役目であった。

そして、私は全力を尽くした。

(「タゴールの詩」より)

 

シスター・ワンダは上記学校の理事長を今年の3月に退任される際、挨拶でこの詩を紹介されておられた。

 

すべての人に訪れる死は、その人がどのように生きたかが最後に示される決定的な時間であり、そのために備えることが必要だと教えてくれているようだ。

 

シスター・ワンダの永遠の安息をお祈りします。