サッカーのワールドカップで日本がドイツに勝った。
ヨーロッパでは、「日本が勝った」ではなく「ドイツが負けた」、「ドイツの腹切り」(?)などと報じられているが、逆に日本人選手やファン達の礼儀正しさは賞賛されている。
日本の学校で児童生徒が掃除をすることは、しょっちゅうイタリアのメディアに取り上げられるが、だからと言ってイタリアもそうしようと言う発想ではない。
新聞やツイッターのイタリア人の反応をみてみた。素晴らしい、これが日本の教育だ、という人もいれば、日本にはイタリアの学校のようにBidello/a/i/eというような、用務員的な人がいないから文化背景が違う、とコメントしている人もいた。
イタリアの学校は保育園、幼稚園から高校に至るまで、教師以外に、事務専門の方やビデッリ(複数形の場合)と呼ばれる日本でいう用務員のような人がいるが、その人たちが掃除もする。
以前子供の通うクラス(中学だか既に高校だったかもしれぬ!)の保護者会で問題になったことがあるのだが、生徒が食べたおやつのごみや消しゴムのかすなどを床に平気でまき散らして、躾がなっていない!ということだった。生徒たちに言わせると、それはビデッリの仕事、ということだった。なんとエゴイストで幼稚な発想であり、アホなんだ?親の顔が見たい!と思ったほどだ。親は学校側の落ち度ばかり指摘するが、自分の子供をきちんと教育しろ!と思ったほどだった。
しかし、ごみ箱があっても、平気でその辺にごみを捨てる人がいる。それもAMSA(ミラノ清掃局)の人の仕事!と思っているようだ。家庭でも生活レベルによるが、生活に余裕があれば、ドンナさんと呼ばれるお掃除の人がいて、家が常に綺麗であり、そうでなくてもイタリアのマンマは料理、掃除好きの人が多いから、子供が料理や掃除の手伝いをさせられる…というケースは少ないのだろう。
しかし、文化背景が違うだけで終わらせていい問題なのだろうか?
また、視点は違うが、武道を子供に習わせると躾が身に着くと思い込んでいる保護者が多いようだが、飛んでもない!これはすべて家庭での営みで身につくもの。
例えば私の所属する空手の教室では、年始恒例の千本突きの前に子供たちに雑巾がけをさせた記憶はあるが、普段はモップが置いてある道場ではモップがけから始まり、モップがけで終わる。
それは、やはり使用させていただいた道場への感謝の気持ちでもある。モップがけを自分がさっとやってしまうのは、早くて簡単だが、やはりその大切さに気付いてもらうため、モップを見えるところに置いておいても、進んでやり始める子はいない。なので、毎回「手伝ってくれる人~?」と声をかけると、やりたい!といってくるのは大抵日本人か日伊のハーフ。それでも毎回しつこくやっていると、イタリア人の小学生あたりが手を挙げてくれるようになっただろうか?
逆にイタリア人の若い黒帯あたりにもっと気づいて欲しいものだが、そこはサーっといなくなってしまう。他にもミットを消毒したり、倉庫にしまうのだが、気づいてくれる人はいつも一緒。結局家庭なのかな…と思ってしまう。
ところで、空手をやっていて武道とスポーツは違う、とつくづく思う。武道の本来の目的は人格形成。そのため、肉体の鍛錬や競技としての技術習得だけでなく、茶道や日本舞踊のように所作や型を重んじる傾向にある。「礼に始まり、礼に終わる」は、まさにお互いを尊重し、敬意を示す態度を表している。
忙しい日常の中で、ついおろそかになりがちな挨拶だが、武道において、どのような相手に対しても礼に始まり、試合展開や結果がどうあろうと最後まで取り乱さず、礼に終わることが大切とされている。
人を倒したい、人に勝ちたい、という本能は誰にでもあるのかもしれない。けれどそれを戒め、相手を重んじ怪我を回避することも重要だし闘争的本能を制御することを身に付けることも重要だろう。
武道では普段の稽古から礼儀が重んじられているため「礼に始まり、礼に終わる」という規律からブレることはない。そのため、試合がどのように展開しようと、本来は感情や闘争本能をコントロールすることができるはずなのだ。
しかし、「礼儀」は武道のみならず、一般的なスポーツも同様、社会でも欠かすことはできない。
礼儀の本質は、相手を思いやる心。「自分がされて嫌なことを相手にはしないし、されて嬉しいことは相手にもしてあげる」という心配りや気遣いが重要だろう。
今回のニュースで、ただ大騒ぎするよりも、皆良いことは真似してみよう。

