礼節を重んじる武道において、稽古または試合などの始まりと終わりには、相手に対して敬意を込めて必ず礼を行う。道場とは稽古そのものが礼儀を学ぶ場であるが、それは子どもだけに限らず大人や保護者にも礼儀は大切。長年、子供の空手教室に付き添い、そして自分も道場にて稽古をするようになって、新たに分かったことがある。
「子は親を移す鏡である」という。また「この親にしてこの子あり」とも言う。もちろん、ケースバイケースであろう。でも、子供に行儀や躾、作法、⚪️⚪️メソッドなどを求めつつ、そこへ放りこむだけで親が見本を見せなければ、意味はない。それはあまりにも無責任ではないだろうか?なんだかな...と思う日々である。
ところで、今日、年に1度行われる日本語能力試験の試験官の仕事に出かけてきた。日本語を学ぶイタリア人は他のイタリア人に比べ、比較的繊細に見える人が多いように見えるのは、独断と偏見か?試験用紙や解答用紙を配布、回収する度に、皆軽く頭を下げて、毎回grazie!と言ってくれる。普段の生活で接するイタリア人にはあり得ないことだ。
子曰く、人にして仁ならずば、礼を如何。人にして仁ならずば、学を如何。
孔子のいう「礼」は人間の決まり、敬意、厳かさの表現である。また、「楽」は人間の親和の表現。つまり礼と楽は人間の文化の表現であり、その根底にあるのは「人徳」。人間らしい愛情なのである。もし人間らしい愛情をもたないとすれば礼も楽も所詮みせかけのものになってしまう。
つまり人間関係の基本は「礼」なのだ。
陽明学者であり思想家である安岡正篤氏は、「本当の人間尊重は礼をすることだ。お互いに礼をする、すべてそこから始まらなければならない」と仰った。また、『経営の神様』と呼ばれた松下幸之助氏も「礼」を最重要視していたという。「礼」は人間としての自然の姿、人間的行為、すなわち礼とは「人の道」なのである。
好きとか嫌いとか好みの問題ではなく、相手を尊重する行為。「礼」を軽視する人間は、結局は自分に甘く、迷惑を顧みない人なのではないだろうか。尊敬の念、感謝の念は自然に体の中から出るものでありたい。
「礼に始まり、礼に終わる」
武道の世界のみならず、人間関係でも礼に始まり、礼に終わることを再確認してみよう。
