礼に始まり礼に終わる | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。



礼節を重んじる武道において、稽古または試合などの始まりと終わりには、相手に対して敬意を込めて必ず礼を行う。道場とは稽古そのものが礼儀を学ぶ場であるが、それは子どもだけに限らず大人や保護者にも礼儀は大切。長年、子供の空手教室に付き添い、そして自分も道場にて稽古をするようになって、新たに分かったことがある。

我ら空手道場では、「ご父兄に対して」も礼を行う。日本人のご父兄は、皆ぴんっと背筋を伸ばし、号令とともに頭を下げるが、イタリア人の保護者及び付添人は、足を組み、おしゃべりをしたままだったり、本を読んだままの人もいる。こっらああああああああ!思い切りRの巻き舌でどこ見てんだあ!と言いたくなる。自分の子供たちが稽古してるんだぞ、親も真剣に見ろ~rrrrrrrrrrと言いたくなる。先週、喉の調子が悪く、一週間稽古を休んでしまった。4回も稽古を休んだのだ。私としては、悔しい限り。相当に悪いんだね、と笑って言う友人もいたが、咳が出ると、止まらなくなるから仕方ない。他のご父兄と一緒に見学していたが、例のイタリア人たちも「ご父兄に対し..」といったら、静かだったのでようやく学んだか!と思ったら、直後そのまま喋り出した。まじか~?!嫌味のように咳をしても聞こえていない。稽古中チラチラ振り返るイタリア人門下生あり。やっぱり気になるよな~。

「子は親を移す鏡である」という。また「この親にしてこの子あり」とも言う。もちろん、ケースバイケースであろう。でも、子供に行儀や躾、作法、⚪️⚪️メソッドなどを求めつつ、そこへ放りこむだけで親が見本を見せなければ、意味はない。それはあまりにも無責任ではないだろうか?なんだかな...と思う日々である。

ところで、今日、年に1度行われる日本語能力試験の試験官の仕事に出かけてきた。日本語を学ぶイタリア人は他のイタリア人に比べ、比較的繊細に見える人が多いように見えるのは、独断と偏見か?試験用紙や解答用紙を配布、回収する度に、皆軽く頭を下げて、毎回grazie!と言ってくれる。普段の生活で接するイタリア人にはあり得ないことだ。

子曰く、人にして仁ならずば、礼を如何。人にして仁ならずば、学を如何。

孔子のいう「礼」は人間の決まり、敬意、厳かさの表現である。また、「楽」は人間の親和の表現。つまり礼と楽は人間の文化の表現であり、その根底にあるのは「人徳」。人間らしい愛情なのである。もし人間らしい愛情をもたないとすれば礼も楽も所詮みせかけのものになってしまう。

つまり人間関係の基本は「礼」なのだ。

陽明学者であり思想家である安岡正篤氏は、「本当の人間尊重は礼をすることだ。お互いに礼をする、すべてそこから始まらなければならない」と仰った。また、『経営の神様』と呼ばれた松下幸之助氏も「礼」を最重要視していたという。「礼」は人間としての自然の姿、人間的行為、すなわち礼とは「人の道」なのである。

好きとか嫌いとか好みの問題ではなく、相手を尊重する行為。「礼」を軽視する人間は、結局は自分に甘く、迷惑を顧みない人なのではないだろうか。尊敬の念、感謝の念は自然に体の中から出るものでありたい。

「礼に始まり、礼に終わる」

武道の世界のみならず、人間関係でも礼に始まり、礼に終わることを再確認してみよう。