
人と会う、話すなどコミュニケーションで高まるオキシトシン。
オキシトシンは、視床下部後葉から下垂体に直接軸索をのばして投射するホルモン、だというが、オキシトシンは、哺乳動物では子どもを産み、育てるうえで非常に重要なホルモンなのだそうだ。そして、オキシトシンは、精神的な安らぎを与えるといわれる神経伝達物質のセロトニン作動性ニューロンの働きを促進することでストレス反応を抑え、人と交わったりする社会的行動への不安を減少させると考えられているという。
人と会うことをストレスという人もいるかもしれないが、やはり人間関係において自分が殻にこもってしまうと、対人関係はストレスそのものになってしまうのではないだろうか?いかにして、自分が幸せを感じ、穏やかな、情緒を安定させることは、毎日の生活において重要なこと。
オキシトシンは一般的に、触れ合うこと、スキンシップで分泌されるという。毎日シッター先の乳幼児を抱っこしているが、特に生後3か月の三男君に歌(カトリック聖歌)を歌い始めると、あー、あー…と声を出すのだ。話しかける以上に、歌を歌ってあげると反応する。両親、親類は信仰には程遠いが来月、ツインズ+3男君、3人が洗礼を受ける。少なくとも、祈りを歌に込めて歌ってあげているが、反応があると非常にうれしい。
ところで、今日2カ月ぶりに日本語による日本人ミサにあずかった。司式は、現在宣教会の総会に出席するため帰国中だったアンドレア師によるもの。
今日の福音は、ルカ福音所による、「5つのパンと2匹の魚で5,000人以上の人が満腹した」という奇跡の物語であったが、決して聖書では、パンの増加とは書かれていない。「満腹」は聖体の意味であり、自己中心の文化になっている現代社会において、頂いだいたものを感謝し、分かち合う、その重要さをおしえているが、まさに今のご時世、それが足りないのかもしれない、とふと思った。
それにしても、未曾有のパンデミックに襲われ、早丸2年。生活の状況、生活スタイルが変わり、室内にこもりがちで、ミサはもちろん、聖歌隊なども禁止になり、人と距離をとることから、教会から足が遠のいた人もいるかもしれないが、逆に人との絆が強くなったという人もいるだろう。
それは信徒のみならず高齢化している司祭とて同様。あの人どうしているかなあ?思い浮かべる人が増え、電話をしたり、メッセージを送ったり、目に見えなくても、つながりをお互いに感じたものだ。その気持ちが強すぎて、おせっかいになったり、ぎくしゃくするケースも見てきたが、根本的には相手を思う気持ちがあったからだと、今になると理解できることもある。ふとした時に感じる、相手を思いやる心。しかし、それも取り方次第ではかなり状況が変わってしまう。
心の健康に良い影響を与える感情は、やはり「嬉しい」や「楽しい」「ほっこりする」などのポジティブ感情が大事。特にお年寄りは、その陽性であるポジティブな感情が心のワクチンとなって免疫力もアップする。まさにオキシトシンだ。
ミサもその後の茶話会も始終笑いの絶えないひと時であった。
愛すべき動物や植物とのふれあいで癒されたり、幸せを感じられたりすることもある。人との関係はなおさらであろう。
人生、無駄な出会いなどない、と思う。日頃何気なく受けとめているあの人、この人とのつながりも、実は世界の何十億という人の中から、深い縁の力によって選ばれ、結ばれた結果である。
そう考えて、そこに感謝と喜びの心をもち、そのつながりを大事にしていく。そういうところから、お互いの心もよりスムーズに通いあって、ほんとうに力強い真の人間関係も育まれてくるのではないかと思う。
オキシトシンが分泌されると、心が癒され、不安や恐怖心が減少する。また、他者への親近感、信頼感が増し、社交的になる。
まわりの人を大切にし、親密にふれあうことでオキシトシンを分泌させ、心の癒しと幸福感を得られるようになるといいのではないだろうか。
出会いは恵み。そして、その恵みを分かち合う。
日々の生活の中で、オキシトシンの幸せを意識して、感じていたいもの。