昨日空手の春の大会「翔舞の陣」が行われた。
この春は仕事も残業続きで、何かと忙しく稽古には出ていたが、指導も入り始め心身共に余裕がなかった。
大会当日の明け方、指定型の演武中頭が真っ白になってしまった夢を見た。実際大会数日前の練習でも「型の名称!」と言われ、いきなり言葉が出なくなってしまい師範に「おいおいおいおい....」「やばいぞ!」と言われ焦ってしまった。
「ワンチン」という型を打とうとしていたのに、その前に中級の人たちに「ワンスー」という型を指導しており、「ワン」といおうとして、あれ?いきなりブレーキがかかってしまったのだ。そうでなくても「ジッテ」「ジイン」「ジオン」これまた、似たような名前の型を習っていて、名称を言う前にコンマ数秒一瞬戸惑う。駄目だわ、脳が飽和状態、ついていけない…
演武のほうは長年の因縁の相手?基い、良いライバルである、Mとだった。全国大会でも当時色帯シニアの部の決勝戦は彼と二度当たったが、審判の方に「こういうのイタリア帰ってやってよ!」と冗談で言われたことがある。苦笑 だから、彼と当たるのは数えきれないくらいあるけれど、自分自身黒帯になってから多少の進歩はあったのだろうか?怖くなった。今回黒帯は基本の部分、技の正確さは当たり前。それプラス優美性であるとか決める部分を意識するよう師範に言われていた。
とはいえ、今回は大会に出るのは憂鬱であった。出ない、出られない理由は一つもない。どこが痛いなんて言い始めたら、キリがない。上に行けば行くほど、皆体にどこか痛みは抱えているものだ。何が何でも出なきゃ、下の帯の人たちに示しがつかない。そして、勝ち負けに関係なく、自分との闘いの中で、いかに自分に納得のいくものを出せるかが問題だ。とはいえ、今になって、半年ちょっと前の初段審査のビデオを見直して、ぞっとした。こんな甘い型打ってたの?それで指導してるなんて、寒気がした。
Mとは1体1で主審判定が彼に上がった。その時のビデオを見ないとわからないが、直すべきところは、体軸、足捌き、運足、間合い、キレ(腰の使い方)、強さ、残心...など言ったらキリがないはずだ。そこを一つずつ減らし自分なりの型に成長していくしかない。
ところで、今回初めて型の審判をした。最近ある色帯の人たちを指導してきて、気になる部分をいつも注意してきて、大会でもそこは注意深くみていたが、やはり直っていない人がほとんであった。きっと私もそうだったのかもしれない。自分用の稽古ノートがあり、毎回注意されたことを書いているが、初段審査の時、型ごとにページをまとめたら、同じことばかり注意されていることに気づいた。つまり直っていないから注意されるのだ。でも、ある意味注意されるうちが花であろう。周りをみていても、直っていなくても注意されなくなる人がいる。やはりそれは恐ろしい。そして、ノートにその注意部分が消えると、そこはクリアできたことなのかなあ?と理解する。
大会を見ていて、この子ぐんと意識が変わったなあ、という子が数人いた。やはり意識を持つことは大切だ。
逆に自分の番が終わってしまうと、おしゃべりばかりする子がいる。(大人も)毎回同じ子たちだ。「静かにして」といっても通じない。「闘っている人たちに対して失礼でしょう?」といっても黙るのは一瞬のみ。
人の型を見て、良い点、悪い点を見ることは非常に大切で、またそれも勉強になる。いわゆる見取り稽古だ。なるべくならば上手い人の技を見て盗む。見取り稽古というのは実に合理的な稽古方法だと思うが、なかなか実践は難しい。
宮本武蔵の「五輪書」の中には、「目には観の目と見の目があるが、観の目を強くし、見の目は弱くする。」という言葉がある。
これは、相手の動きを「目」で見てから行動を起こすより、「観の眼」つまり「心の眼」で相手の動きや心理を良く観る事が大事だということを説いてる。 兵法の極意の一つとして書かれたものだが、相手の心を読む、ということはそうそう簡単ではない。
稽古や試合を拝見して学ばせて頂く。そして相手に対する敬意を持つことが大切。これこそが武道。
「体の鍛錬」と共に「心の眼の鍛錬」。
月心会空手道訓の一条にある「(空手は)己を見つめ、己を正し、己を磨くものである。」はまさに心の目の鍛錬。
常に意識を持つこと。日々精進。
