子供のころ、「母の日」になると赤いカーネーションを学校からもらい持ち帰った記憶がある。あれは学校から買わされたのか?そして造花だったのか?生花だったのかさえ思い出せないのだが、母に感謝をする日といい、白いカーネーションをもらう人がいると、お母さんいないの?と何とも言えない切ない気持ちになったものだった。
社会人になり、母の日になると、何かしらプレゼントしたが、お花よりエプロンのほうがいいと言われた。エプロンが好きだから…という割に、プレゼントするともったいなくって使えない、という。苦笑 箪笥の肥やしか?
近所の知り合いの教会では、毎年「母の日」になると手作りの商品がたくさん売られる。手間暇をかけ、祈りのこもった商品だ。
今回は手作りエプロンと紙で作ったバラとラベンダーの入った小さな小袋を購入。自分がやはりモノづくりするから、そのかかる時間や忍耐力はちょっとやそっとの値段を付けられないのはよく知っている。本来だったら、安すぎるほどの金額であったので、少なくともおつりは結構です、と受け取らないでいると、メッセージの書かれた紙とチョコレートをご自由にどうぞ、といただいた。
そこには、
お金を出すだけで満足しないようにしましょう。お金だけは十分ではありません。奉仕する指先と愛する心を提供多くの人がいてくれるよう願います。
と書かれていた。寄付はポケットマネーでするものではなく、可能であれば時間と祈りをかけたものの代償にしたいものだ。
ところで、今朝母に電話を掛けた。週に5回は話していると思う。最近では、毎日の出来事と長男の話がほとんどだろうか。長男はきっとミラノの実家にいる時の私と、よりも今現在祖母である母と会話をしているんじゃないだろうか?とはいえ、週1か10日に一度くらいは電話をしてくる。年頃の男子であれば、まめなほうだろうか?
私もそうだったし、子供たちも自分が大人になって、親元から離れ、そして今後いつか自分も子供を育てて初めてわかるものが出てくると思う。
Per la mamma di Gianni Rodari
si faccia avanti chi ne vuole.
Di parole ho la testa piena,
come dentro “la luna” e “la balena”.
Ma le più belle che ho nel cuore,
le sento battere: “mamma”, “amore”.
マンマへ ジャンニ・ロダリ
前に出たい人は誰でも
私の頭は言葉でいっぱいです、
「月」や「クジラ」のように。
しかし、私の心の中で最も美しい、
言葉が刻まれているのが聞こえます:「お母さん」、「愛」。
母親は偉大。


