こころの深呼吸 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

タイトルは、片柳神父様の著書「こころの深呼吸」から。
 
思った通りにならないからこそ、ときどき思いがけない試練がやってくるからこそ、自分の想像をはるかに超えて成長することができる、とおっしゃる。
 
人は、自分と違う意見の人が出てくると、どうも心がざわざわしてくる。(相手が)なぜそう思うんだろうな...と苛立ちさえ感じてしまう。
 
この隔離中、戦争に関して考えていたら、イスラエルのユダヤ人作家であるアモス・オズ氏の『わたしたちが正しい場所に花は咲かない』という本にヒットした。
 
著者は言う。「普通の平和主義者は、『世界の究極の悪は戦争だ』と。だが私に言わせれば、戦争は恐ろしいが、究極の悪は戦争ではなく侵略なのだ。侵略に気づいたら、私たちは戦わなければならない。戦争の反対は愛ではないし、戦争の反対は思いやりでも、寛大さでも、友愛でも、許し合う心でもない。戦争の反対は平和だ」。

彼はこの本のなかで、イスラエルとパレスチナの二国家分割のビジョンを示している。そしてそのビジョンを妨げるのは、イスラエル、パレスチナ双方の「自分たちこそが正しいのだから、間違っている相手を正してやろう」という思い込みであり、これが「侵略」だと言う。
 
そこで、ふと思った。人とぶつかる時大抵自分は正しいという基準でものを見ていると。それを相手に強要したり否定することは侵略なのかもしれない。
 
また上記著者は「想像力が必要だ。他者の立場に身をおいてみる力が必要だ。絶対的に正しいことなどない、という総体的倫理観の話ではなくて、相手が100パーセント間違っていても、相手の気持ちになってみるのは無駄ではないのだ」と。
 
しかも、日本人は「侵略される」という経験を持っていないから、イスラエル・パレスチナ問題になるとなぜ彼らが戦わなければならなかったのか、ということを想像する視点が欠けやすいのかもしれない。
 
「戦争は人間のしわざです。戦争は人間の生命の破壊です。戦争は死です。」とおっしゃったのは、1981 年に来日したロー マ教皇ヨハネ・パウロ2 世の広島での平和アピールの一 文だ。
 
相手の視点に立つことは重要でも、やはり人間の尊厳である命を脅かす行為はどんな理由であっても認められるれるはずがない。
 
ところで最近何かと心がざわざわしていることがあった。決して相手を否定したつもりはなかったが、じわじわ感じていた違和感を言ったことによってちょっと周りを巻き込み関係をギクシャクさせてしまった気がする。
 
決して誰が正しい、間違っているという事ではなかったと思うが、シンプルに、そして誰にも気兼ねしない、納得のいくやり方・関係性が重要だと思って言ったたことが、やはりこれも「侵略」の一つであったのだろうか。
 
意見を言いながら、言っていることがころころ変わっていく人がいる。少なくとも自分の意見に矛盾は無いか、固執していないか、感情に流されていないか?などと考え直す。
 
こころの深呼吸。一歩引いて考え直してみることも大切だ。
 
ちなみにオズ氏の著書のタイトルの元となった詩「わたしたちが正しい場所」(イェフダ・アミハイ氏作)も見つけた。
 

わたしたちが正しい場所に

花はぜったい咲かない

春になっても。

わたしたちが正しい場所は

踏みかためられてかたい

内庭みたいに。

でも、疑問と愛は

世界を掘り起こす

もぐらのように、鋤のように。

そしてささやき声がきこえる

廃墟となった家がかつてたっていた場所に。(村田靖子訳)

 

心に揺らぎを感じた。

 

やはり自分が正しいという気持ちが少しでもあると、異なる他者に対し、激しく批判が生まれてしまう。

 

言葉や行動の前に、一度深呼吸だな。