今朝4時に夫は出張に出かけた。また、次男も友人の家族とスキーに出かけた。
今日は日曜日であるが、キリスト教初の殉教者である「聖ステファノ殉教」の祝日であった。私は年内カレンダー通り仕事なので、居残り。
仕事で心身ともに疲れ切っていたので、一人になってもやっとゆっくりできる!という開放感。ミサに出かけ、あとはドラマを見ながら、編み物に更けた。夕方買い物に行くと、スーパーはかなり混み合っており、食料の棚もかなり売れ残りばかりになっていた!それだけ皆普通にミラノに残っている人が多いと言うことだろう。
とはいえ、逆に、このコロナ禍でのヴァカンスは特に、孤独を感じる人が多くなるそうだ。しかもイタリアの場合、クリスマスシーズンは家族で過ごすもの。離婚や伴侶に先立たれ、たとえ子供や孫がいても物理的に会えない場合は、孤独感が更に増すことだろう。
9月に奥さんを亡くされたばかりの空手仲間のF爺さんに電話をしてみた。先月私と同年代あたりの奥さんの姪御さんという方を空手に見学に連れてきていたので、クリスマスはその家族と一緒か?と思っていたら、何か遺産の問題で彼女はもう敵なんだよ、という。
普通に近況を話していたが、だんだん涙声になってきて、自分は独りだ。心の隣人もいない。生きているのが不安だ。怖い...と号泣されてしまった。泣かれるのはよくあることだが、何も言えずただただ一緒に涙を流すことしかできない。もし、うちの父だったら...いつも彼を見るたび、考えることであった。
人生は時折残酷な運命を吹っかけてきて、あっという間に生活が激変してしまうことがある。空気のように長い間(53年といっていた)いつもそばにいた人がいなくなるのは、やはりとても残酷なことだろう。それで空いた穴は、自分を無理矢理忙しくさせることで少しだけ埋められても、到底のことでは難しい。しかも、このコロナ禍。何かと制限はある。
そしてまた、日々できなくなることも増えていくのだろう。身体の衰えを感じることは死を意識することにもなり、不安を感じるものだ。また、高齢になれば、多かれすくなかれ、ほとんどの人が病気を経験し、身体機能が衰えている状況で病気を発症することは非常に恐怖を感じるもの。病気になれば医療費の心配、介護が必要になれば介護費用も必要となる...。
奥さんを亡くされて3ヶ月。まだまだ心は不安定なことと思う。未亡人の女性は、たとえ寂しくても、男性よりも社会性がある人が多いから、あちこち出かけ、誰かと、そして何かをしながら、徐々に元気になって行かれる人が多いが、男性となると、なかなかそうはいかない。
亡くなられた奥さんに早く黒帯を見せたい、という夢もあるだろうが、道場へ行き、稽古することで、心身ともに強くなりたい。武士道を身に付けたいんだと言っていた。とにかく手探りで一生懸命何かを探している感じを受けた。
私も人に触れて、初めて人間が互いに支えあっており、その生きていく喜びを「教えて頂いている」感じがしている。
孤独は、高齢者の敵である。
先日、カトリック日本人会のミサの間でも友人にお年寄りのお友達から何度も電話が入っていたという。またあとでゆっくり電話しますね、と連絡を入れていたが、やはり皆寂しくて話し相手を求めているのかもしれない。
「カルカッタはあなたたちの周りにもあります。 愛に飢えた人は、あなたたちの国にもいるのです。」マザーテレサの言葉を思い出した。
