今日の恵み、今日のご縁 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

今日はミラノの守護聖人にまつわる飛び石連休がひとまず落ち着つき、次男は学校へ行ったが、学校や会社によってはまだまだ長い連休になっているところもあることだろう。ミラノの物産展も今週末まで続いている。

 

さて、本来今日はシッター先のママさんが仕事だったので、出かける予定であったが、昨日北イタリアは雪に見舞わられ、彼らは急遽ミラノ郊外の別宅(本宅?)にとどまることになった。

 

それでも家の様子を見に出かけてきた。

 

時間は適当で良い、というので、ここ数ヶ月行けていない木曜メルカートによってから出かけた。

 

目的は、蜂蜜屋さんと毛糸屋さん。蜂蜜屋で売っている固形石鹸がお気に入りで、まとめて買いたかったのと、毛糸屋さんで安い糸がないか見てみたかったからである。

 

まずは、蜂蜜屋さんから...

 

「おー元気にしてた?」と言われたので、(ミラノの連休の伝統的お祭りである)「オベイ、オベイ(Obei Obei (Obej Obej ) ミラノ方言で「なんて素晴らしい、美しい」という意味)に出店してたんでしょ?どうだった?」と聞くと、人の出が悪く、一昨年前の半分だったよ、という。えっそうなの?その日は物産展も人の出が悪かったが、きっと皆オベイオベイに行っているのかと思っていた。連休中、市民は旅行へ出ているのか?それともお金を使わず家にいるのか?想像がつかないものだ。

 

彼は、シッター先のツインズと同じ月齢のお子さんがいるが、「ガイア(彼の長女)はどう?」と聞くと、「2人目が生まれるんだよ〜」と嬉しそう。「多分、アンナという名前にすると思う」という。イタリア人は子供が生まれる前から、すでに名前をつけている人が多い。「何月?」と聞くと5月に生まれるのだそうだ。ちなみにシッター先は3月末。似たようなものだ。ツインズは私の孫でもないのに、ついつい身内のように話してしまう。笑

 

その次に、毛糸屋さんへ出かけた。

 

もうかれこれ10数年通い込んでいる屋台だが、オーナーのグイドは、生地、つまり繊維類の生産地であるピエモンテのビエッラから毎週通って来ていた。距離にして100キロちょっと。年は70後半くらいか?と想像していたのだが、だんだん、人を使い、自分は後から来るようなスタイルになってきていた。その使用人、というのも、イタリア人のお年寄りであったり、東欧系の男性であったりと様々であったが、多少彼らが仕入れたものも一緒に売り、その収益は彼らの取り分にさせていたようだが、東欧系の男性がいた時は、愛想は悪いし、高いし、趣味は悪いし...といった感じで、あまり通わなくなった。

 

今朝行くと、バングラデッシュ人の男性がいた。「グイドはいないの?」と聞くと、「グイドはもういない」と言われたので、思わず「経営者が変わったの?」と聞くと、「いや、2ヶ月前に亡くなったんだよ。」と言われ、言葉を失った。病気だったの?と聞くと、病院へ行ったら、きっと返してもらえなくなる...と彼は言っていたそうで、きっと自分の体が病に侵されていることは自覚していたのだろうか?入院する3日前まで仕事をしていたそうだが、調子が悪くなり、自分で病院へ行き、身体中癌に侵されており、15日後亡くなったのだそうだ。

 

「残念...」というと、「でも彼は92歳だったからね。やりたいことやり通したんだと思うよ。」とバングラデッシュ人の彼。92???そんな高齢であったとは想像もしていなかった。メルカートで見かけても、黙々と毛糸類を仕分けしていた。私が毎週よく糸を買い込んでいる時期があったので、一緒に仕事するか?と声をかけられたこともある。在庫抱えて無理無理〜といったが、手伝いに来ていたおばちゃんにバッグやら簡単な衣類を作ると、お金の代わりに毛糸のパックをよくもらって行ったものだ。

 

ちなみに、奥さんはいたの?と聞くと、別れた奥さんはいるが、店の権利は学校の先生をしている姪に託し、僕らが売りにミラノに来るんだよ、という。

 

グイドが居た時は、朝の5時には現地を出ていたんだ。よくご飯にも連れて行ってもらったもんだよ、と笑顔で話してくれた。彼は口数は多いようには見えなかったが、人の面倒見は良いようだった。

  

願わくは深く無常を念じて、いたずらに後悔を貽(のこ)すことなかれ。by親鷲

 

この世に生を受けた私たちは、必ず「老い」、「病み」、「死ぬ」のだ。これはもう誰もまぬがれることのできない、命の事実。

 

すべてのものは変化しているのに、私達はどれだけ目の前のものに執着したり、「自分」にとらわれたりしているのだろうか?何歳まで生きたか?というよりも、「今」という一瞬を生きることの方が大事だ。その一瞬を大事に生きることができない人には未来はないだろう。

 

そういう意味では、グイドは「今」を充実させていたのだろうなあと思う。

 

ある時から、私は毎日出会う人、毎日起きる出来事が自分にとってどういう意味があるのかふと考える事が多いのだが、今日、シッター業も、物産展もなく、ひょこっと予定外でメルカートへ行かなければ、知りえなかったことだ。

 

今日の恵み、今日のご縁というものは不思議なものだ、とつくづく思う今日この頃。