リーの葬儀 番外編 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

先週同じアパートに住むリーの帰天は思いがけない出来事だったが、ある程度家族にも覚悟があったようだ。
 
昨年のこの時期だったらコロナで亡くなったわけではなくとも、葬儀をあげる事は出来なかっただろう。
 
リーの葬儀を思い返して見ると、大切な方を失った悲しみに心を痛められている中でも、ご遺族は後悔のない感謝にあふれるお見送りをしていたように見えた。
 
後から知ったが、リーは若い頃、アルピーニに所属していたのだ言う。アルピーニとは、イタリア陸軍の兵科の一つで、山岳戦を専門とするエリート部隊だ。
 
葬儀の際、妻のグラッツィエッラはリーの“cappelloalpino”と呼ばれるフェルト地で黒いカラスの羽がついてる帽子を持っていた。
 
葬儀ミサの司式司祭がアルピーノだったのなら、誰か仲間が歌ってくれないものか?と言っていた事を思い出した。流石に86歳だ。生存している仲間も残り少ない事だろう。
 
考えてみれば、以前ご近所でやはり元アルピーノの方が亡くなられた時は、まだ70代と若かった分、参列した元アルピー二も多く彼らの歌はそれはそれは素晴らしく、聖歌隊の出る幕はなかったくらいだった。
 
ところで、日本だと近年家族葬は増加している。家族葬とは、身内だけの葬儀かと思っていたが、一応親しい友人も含まれるようで、逆にそれ以外に仕事関係やら身内の関係者も含めて、関係のあった方々にも参列してもらう葬儀は一般葬と呼ぶようだ。いずれにしても、葬儀の流れや宗教形式などは家族葬と一般葬とで大きな違いはないようだが、 参列者に対する考え方が異なるそうだ。 家族や親戚との繋がりや付き合い方、 故人や家族のこだわりなど、家族2人の場合や50人以上の家族葬もあると言う。
 
以前、リーとグラッツィエッラの結婚50周年記念と孫のアリーチェの結婚式及び披露宴に招待された。7-8年前あたりかと思っていたら、すでに11年経っていたと聞いて驚いた。教会及び披露宴のあったレストランは彼らの郊外の家がある街であり、本当に身内だけの式であったが、それでも30-40人はおり、今回もその時にあった親類と近所の人たちが参列していた。
 
イタリアでは葬儀に参列するたび思うのが、葬儀は命でつながっており、それぞれが人生という物語の中にいる、ということ。家族、友人、職場...故人とつながりを持つあらゆる人が皆、それぞれの人生という物語の中にいる。そして、葬儀という特別な時間を通し、それぞれのその物語が重なり繋がっていくのだ。

故人との思い出、共に過ごしてきた日々に想いを馳せることで、それぞれの物語に広がりや深みが加わっていく。

ところで、ここ数年の間に、ご近所では、ほとんどの高齢のご主人が先立たれ、未亡人が増えてきている。それは実家近所でも同じなのだが、特にこちらの1軒、2軒隣のアパートのおばあさんたちは、ほとんどが子供がいなかったり、いても未婚で孫もいない、という方ばかり。また母一人、子一人であり、母親を亡くされた、私より年上の方は独身女性で自分の親くらいにあたる未亡人のおばあさんたちを取りまとめて参列していた。
 
数年前にご主人を亡くされ、会うたびに涙ぐまれるおばあさん(名前は聞いたことがない)は、既に90代になっていると思うが、身長があの年齢でめずらしく175cmはあったはずなのに、久々会ったら私と変わらない身長(165cm)になっていた。リーの子供や孫を見て、「あれは誰?」そして、誰かが何番目の誰それよ、と教えると、「マンマミーア!あんなに小さかったのに...」といい、その子供たちを見ては、再び驚きの言葉を発していた。そして「なんで夫たちばかりが先立ってしまうの?皆んないい人たちだったのに...」と嘆いていた。私のことは、「このシニョーラのことはマスクをしていても誰だかわかるわよ。」と言っておられたが、「あなたの旦那さんはまだ生きているの?」と聞かれ苦笑した。「まだ多少若いですから...」。微妙に痴呆が出ている気がしなくもなかった。
 
「皆に再会するのが、こういう機会(葬儀)というのはもう嫌だわ!」と嘆いておられた。毎日散歩に出られてますか?また近所でお会いしましょうね、と声をかけると、上記元アルピーノの奥さんだった方が、私があなたの家に会いに行くわ。それでおしゃべりしましょう!と言っていた。
 
考えてみれば、母の周りもほとんどが未亡人だ。しかし、毎日誰かしらと電話で話し、病院へ行けば再会し、先日は頂き物をさらにおすそ分けしようと近所の未亡人の方を呼んだら、夜中の12時まで話し込んじゃったのよ!と言っていた。それくらい話に花が咲く方がいい。

人と人とのつながりの中で、感謝、愛情、希望を通じて、つながる皆が感謝し、笑顔になる。それは大切な、優しい贈り物を与え合う時間であろう。
 
葬儀に参列するたびに、個人と家族、または友人との絆を感じる。
 
死は悲しいけれど、病気であった場合は、それ以上苦しむこともなく、神様の元での永遠の安息を祈る。葬儀(別れの会)が明日につながる希望の時を提供してくれることもあるのだと今回感じた。