片柳神父様のラジオ番組「心のともしび」、月刊誌「こどものせかい」に寄稿されたエッセイをもとに編集されている一冊。
子供の頃、農家の父親を恥ずかしいと思った事があるといわれる片岡神父。無口な父とそれほど話すこともなく、ぶっきらぼうで頑固で、近寄りがたいと思っていたが、ある日あっけなく亡くなられたそうだ。後に、自分が父親を誤解していたことに気づき、逆に子供時代の父親との思い出が父親の記憶と結びつき、その懐かしさは子供の頃、父親から大切にされ、愛された記憶への郷愁でもあるという。
ところで、「三つ子の魂百まで」というが、三つ子とは数えで2歳のこと。人の成長において、生まれてから最初の数年ほど、急成長の時期はないだろう。
生まれる前には、五体満足を願い、生まれれば「這えば立て立てば歩めの親心」というが、今や出産前から、○○式だ、×△式だと、親の劣等感の裏返しか?、親の都合であれも、これもと人生のレールが引かれてしまう。これじゃあ鋳型にはまった生き方しかできないだろう。誰の人生なんだ?
とはいえ、自分の子育てはどうだったのか?とふと思うことがある。ただただ、必死だった。人から見れば、過干渉だったかもしれないし、子供に(特に教育に)べったりなイタリア人から見れば、放任の方だったかもしれない。(どっちなんだ?)
ただ、子供達には私は学歴よりも生きる力をつけて生きてくれればいい、と常に思う。要領がよくなくても、何事も一生懸命、誠実に、人間味を持って生きることの方が大切だ。
それにしても、自分の子育て中自分の心に余裕がなく、子育て自体楽しめなかったように思える。昔のアルバムを見て、子供達がこんなに可愛かったのだなあと今更思うのだ。
だから、今、ベビーシッターをしながら、けっしてやり直しではないけれど、楽しみながら、子供たちに触れている。特にスキンシップというのは大切で、ぐずったり、寝かしつける時に、声をかけ、触れることで安心して眠りに落ちていく様子が手に取るようにわかる。
イタリア人はベッロ!(ベッラ!)、ブラーヴォ!(ブラーヴァ!)などと自分の子供をべた褒めする。でも大人になっても、意外にそういう言葉を言われると恥ずかしくても嬉しいものなのだ。疲れ切って寝落ちることもあるが、この歳になって安心して寝落ちる、ということはあるだろうか?と思う。
それは「愛されている」という安心感なのではと思う。あるがままの自分を受け入れてもらう。それは自分に対しても同じで、あるがままの状況を受け入れることのできる、心の大らかさが重要だ。
いずれにしても自分が実践できていない高い理想を、子供や周りに求めても、それは無理なことだ。子供や周りが思った通りに育ってくれないと感じるのならば、それを嘆く前に、自分自身が自分の思った通りに生きられているかを確認する必要がある。
懐かしさは、誰かから愛された記憶、ぬくもりに包まれた幸せの記憶といつも結びついている。心に宿った愛を、子供たちに惜しみなく注いで行きたい、と思わせてくれる一冊だった。
