今朝ほどカトリック船橋学習センター・ガリラヤの講座があった。講師はカトリック府中教会主任司祭であり、ミラノ外国宣教会の日本管区長でおられるアンドレア・レンボ神父。
ルカの福音書によるたとえ話第5回目。日本との時差のため、5時半起きには頭と顔には辛いのだが、毎回多くの参加者が熱心に聞かれており、寝ちゃいけない!と思うが、逆に話の面白さに引き込まれ、頭はぱっかーんとさえきってしまう。爆 「皆様ー、シートベルトをきちんとお締め下さい!」イタリア語でも早口な神父は日本語でも非常に早口。盛り沢山な話題を一気に語り始めていく...
本日のテーマは「ファリサイ派と徴税人」。(ルカ18:9-14)
(そのとき、)自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対しても、イエスは次のたとえを話された。「二人の人が祈るために神殿に上った。一人はファリサイ派の人で、もう一人は徴税人だった。ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。
最後の箇所は有名であり、人生の教訓だ。「自分が正しい」と思っている人は、他人を見下しており、常に人と差をつけようとしている。それは地位が上になる人ほどやってはいけない事だと思う。
アンドレア神父曰く、もし自分が家庭を持ち子供の親だとしたら、ファリサイ派のような真面目な子供は理想的だと思うかもしれない。しかし、生まれた時から社会に向けて完璧な人間は、人生の歩み、成長も見られないのでは?と言う。
神からみるとファリサイ派は正しいように見えるが、義とされたのは、徴税人だ。「神様、罪人のわたしを憐れんでください」徴税人の言葉からもわかるように、自分の心がどこに向いているかが問われる。
"The Pharisee and the Publican" ( ファリサイ派の人と徴税人),
Barent Fabritius, 1661, Rijksmusiam
中央の絵は明らかに神に誇らしげに自分を語るファリサイ派。そして柱の後ろに俯いている徴税人が見える。左側のファリサイ派の脇に悪魔がおり、また右側の徴税人はまるで神のゆるしを得て心が軽くなった様子が伺える。
ところで、この章は、前章の「やもめと裁判官」のたとえを受けているのだが、不正な裁判官はやもめがあまりにもしつこいから、いうことを聞こうとする。しかし、神はいう。「しかし、人の子が来るとき、果たして地上に信仰を見いだすだろうか。」つまり、信仰がないとどうなるか?だれが信仰を守っているか?
そして、「ファリサイ派と徴税人」の後に「子供のように神の国を受け入れる...」つまり、子供のように素直な心であるようたしなめられる。
やはり神とのやりとりなしでは成長はできないということ。つまり「祈り」は愛するための技術だとアンドレア神父。自分と隣人を愛する技術。それは「識別」でもあると言う。サムエル記(下24:18-25)や列王記(上3:4-15)も合わせて朗読し、何を神から待ち望んでいるか?考える。
そこで、アンドレア神父より、プレゼントといってこちらの画像を紹介された。
”Le murmure de l'Ange”(天使の囁き)1857, Benjamin Spence Musée d'Orsay
オルセー美術館のHPを見ると、この彫刻は、赤ちゃんが睡眠中に微笑むのは、彼が天使と話しているからであるという古いアイルランドの信念を伝えるサミュエル・ラヴァーの詩に触発されている、と紹介されている。
しかし、アンドレア神父曰く、彼がフランスに聖書研究で滞在していた際、スペンスの日記を読む機会があり、そこには、本来この「天使の囁き」というタイトルが付けられる前は、実は「ゲッセマネの祈り」というタイトルが付いていたというではないか!実際上記HPにもスペンスは時に聖書からインスピレーションを受けている、とも書かれていた。
ゲッセマネの祈り、とはイエス・キリストが裏切り者のユダによってピラトへ引き渡される前の最後の祈りであり、3つの福音書にも書かれている。
「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください。しかしわたしの願うことではなく、御心を行ってください」(ルカ22:39-46 )
杯を取りのける、とは十字架の死を回避すること。しかし、神に対して従順に歩むためには辛い選択をしなければならない時がある。その葛藤を「御心のままに」と神に委ねる。逃げることなく、前に進む。つまり御心が行われることである。
その心の葛藤のすさまじさが、汗が血が滴るように地面に落ちたとある。ルカの描写は苦しみ悶えるイエスの姿なのだが、そこに天使が現れ、イエスを力づける。それは「なぐさめの天使」とも呼ばれるそうだが(いつ書いたものだかわからないが、聖書に私自身がそうメモしていた!苦笑)上記スペンスの彫刻の天使はまさに、赤ちゃんであるイエスに寄り添い、慰め、そして励ましているのだろう。
神は正しい人、問題のない人をそれゆえに愛するのではない。問題があっても、不完全でも、過ちを侵す人であっても、あるいは、そうだからこそ、かけがえのない大切な人として認め、受け入れてくださるのではないだろうか?
神と人間の間には壁があるが、それを御心に委ねる...。
信仰理解こそが私たちにとって福音ではないかと思うのであった。この機会を頂けたことに感謝。


