月曜日の朝っぱらから、バールでお茶のみしていた友人と「死」について語り合った。
私よりちょっとお姉さんの友人は3歳くらいから「死」についてよくご両親に質問されていたと言う。「死んだらどうなるの?」「どこへ行くの?」あまりにも質問攻めにしたら、ある時有名なお寺に連れて行かれ、お坊さんに説明してもらったら余計に怖くて怖くてたまらなくなってしまったと言う。
一緒にいたメンバーは皆カトリック信者であり、「永遠の命」を信じるとミサの間にも告白するわけだが、友人は「「永遠」に続く命」つまり普遍なわけだが、それも怖いと思っていたと言う。
また、もう一人の友人もやはり3歳くらいの時に人間は死んだらどうなるのか?2、3歳年上のお姉さんに相談したら、それは子供だからそう感じるのだと諭された、と言う。お姉さん(たぶん私と同い年?)、小学校に入る前から悟りを得ている‼︎
そう言う意味では、私は子供の頃、「死」の恐怖なんて感じたことないなと思う。4歳の時に父方の祖母が亡くなったが、東京と東北とで離れていたし、初孫ではあったが、そうそう会ったわけでもなく記憶にない。
とは言え、学生時代、「なぜこの世に生まれ、生きるのだ?」「なぜ生きなければならないのか?」そんなことばかりよく考えた。生を受け、生きる延長には「死」がある。これは貧富の差のない唯一平等な事。(時間もそうか...)
一緒にお茶を飲んでいて3人は、それぞれ40歳、50歳前後にカトリックの洗礼を受けたのだが、幼児洗礼でない限り皆自分の意思であり、何かしら自分の人生に関わる事だから決心した事だろう。決心といっても自分一人の力ではなく、皆誰かに背中を押されたような不思議な力を感じていたはずだ。
ところで、日本では今や終末期、緩和ケア、尊厳のある死に方……「死」をどう迎えるかをテーマに、メディアやニュースで語られるのを耳にする機会は増えたのに、「死」を語ることはタブー視されている。
ヨーロッパは死は避けられないものとして受け入れていく考えの下地にあるけれど、日本人にとってまだ死は穢れ、忌み嫌うもの、という意識がまだ残っているのだろうか?
お茶を飲んでいる間、知り合いの司祭も少しの間一緒だったのだが、「神父様は死は怖いですか?」「どう考えられます?」と質問攻めにしてしまったが、結局は死の恐怖、痛み、悲しみもそれを「受け入れる」までがポイントなのではないだろうか?と思った。
キリスト教では、死後に天国で新しい生命にあずかり、愛する人たちと再会できると言う根源的な希望がある。これは信仰の根底を支える確信に満ちたものだと思う。
もはや死はなく、
もはや悲しみも、嘆きも、苦しみもない。
先にあったものが過ぎ去ったからである。
(ヨハネ黙示録21:4)
人生で一番辛いのは、愛する人との死別の時だと思う。しかし、誰にでもいつかは必ず訪れるそういった人生の危機に直面する時、上記の聖句は、残される人への優しい慰めと励ましに溢れていて、心に響く。
ミラノ朝のバールで「命」に関わる話題。神父様から興味深い話題だったとメッセージを頂いた。