ついにミラノのアンブロジアーノ典礼も四旬節に突入した。
昨年の昨日、ミラノ郊外でコロナ第一号が発見されてから1年。
四旬節とは、「復活祭」の準備の時で「40日間」を意味する。復活祭までの日曜日を除く40日間が断食の期間とされていたので、ローマ典礼では「灰の水曜日」が四旬節の始まりとなった。しかし、ここはミラノ。「灰の日曜日」から始まるので5日間短いことになる。
四旬節は、回心、悔い改め、節制...そう言われるだけで重い、苦しいイメージに思いやられてしまう。そういう意味じゃ、復活祭、クリスマスを迎えたにも関わらず、この1年ずっとずっと暗く重い四旬節のような気持ちを引きずったままの1年だった気がする。
ところで今日から聖歌隊に復帰した。ミラノに戻り自主隔離を経、教会に戻り始め一ヶ月が経つが、一度お御堂の最後列に座ってしまったら、祭壇上の聖歌隊に戻るタイミングがつかめなくなってしまった。それがある時、ミラノに戻ってから初めて再会した一人の司祭に「何度か電話してたんだよ。なんでこんなところに座ってるんだ?」と言われた。まあ、はっきりいって背中を押される形になり、良くも悪くも聖歌隊に戻った。
なぜ”良くも悪くも”かといえば、今までのオルガン演奏はすべての曲をハ長調のドミソの和音で、一小節の中に4分音符が4つ入るようなリズム。しかもたびたびコンマ数秒リズムが早くなる。皆がついて行っているのに、違和感を感じる私がおかしいのか?不安になったが、一人のメンバーが、うん、彼女がオルガンを弾き始めてからずっとこんな感じだよ、といわれ納得。また、一時期一緒に聖歌を選んでいたが、私が選ぶ曲はほぼ全曲却下されるのである時から口を出すのは辞めた。つまり、歌ってもどうも気分がすっきりしないことが多かった。
ところで、先週から聖歌隊の3分の1を占めるシスターたちが、所属する学校でコロナ陽性者が出てしまい、全員隔離状態。2週間どころかしばらく戻れそうにない、と言う。聖歌隊に残ったメンバーはほとんど高齢者のみ。
しかし、救世主として新しいオルガニスタが昨年末あたりから登場したという。ドウモでオルガンを弾いているという若者で、オルガン当番でない時は、ドウモでの聖歌隊のメンバーなのだそうだ。時間を調整し、我がパロッキアのサポートに来てくれるようになったという。やはり伴奏がいいと、歌も上手くなった気がするのは気のせいか?笑
話は変わるが、四旬節第一主日はローマ典礼ではマルコによる福音書1:12-15 だったが、アルンブロジアーノ典礼はヨハネ(4:1-11)であった。双方とも「荒れ野での誘惑」に関するところであったが、マルコの方が非常に簡潔である。「誘惑」と訳された言葉(ペイラゾー)には「誘う」と「試す」の両方の意味があるというが、ここでは、「神から離れるよう誘うこと」だという。そういう意味では、やはりこの1年、コロナ禍で気持ちが麻痺しており、何度も神から離れそうになった。
そんな中、司祭が「砂漠でも花を咲かせることができる」と述べ、はっとした。
荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ 砂漠よ、喜び、花を咲かせよ 野ばらの花を一面に咲かせよ。花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ。砂漠はレバノンの栄光を与えられ カルメルとシャロンの輝きに飾られる(イザヤ書35:1-2)
人が砂漠の現実だけを見つめ続ける限り、砂漠は未来もなお砂漠のままだろう。大事なのは、輝き溢れる「主の栄光を見る」こと。そこに希望がある。
四旬節は心と生き方の方向転換。心と生き方がどこを向いているかが問われる時期だ。心を開いて前を向こう。
