ついに出発の日となった。
夜の便だったので、午前中は、前日自主隔離が終了したばかりの長男の役所での届出やら、金融機関での手続きに同行した。
一人でできるでしょ?とも思ったが、やはりわからなければ聞けばいい、とは言え、日本のシステムは全くわからないだろうし、読めない漢字、理解出来ない言葉は沢山ある事だろう。逆の立場だったら、プレッシャーで気が滅入ってくる事。まあ日本はイタリアより行政はシステマチックであろう、とは思うが、逆に融通が効かないところも多い。
ところで、役所は仕事始めの日であったので、混雑を想定し、転入届や国保加入の用紙は、既に家で書き込んで行ったので、番号札を貰うだけだったが、やはりかなり混み合っており、密じゃん!しかも番号札の番号、叫んで呼んでるし...。
申請は直ぐに終わったが、手続きと保険証をもらうためにかなり待たされた。その間に、編み残していた猫の部位がかなり進んだわ。笑
役所の次は郵便局。ここもまた密であったが、長男の用事は直ぐに済んだので、ついでに銀行でも口座を開設した。全て本人にさせ、問題があれば呼んで貰おうと思ったが、同席を勧められてただ横に座っていた。
全てがオンライン化されており、数年前に私がデビットカードを作った時は、ヨーロッパでは通常のことでも、日本ではデビットカードが使える店舗が少なく唖然としものだが、日本も急激に電子マネー化してきており、逆にポイント、ポイントと訳わからなかった。ポイ活で生活費も節約出来るって何かトリックを見せられた気がしたものだ。
とりあえず、長男が帰国後直ぐにしなきゃ行けなかった手続き第一弾は終了。彼が直ぐにダウンロードしたオンラインバンキングは英語だった。やはり彼にとって母語は日本語であっても、イタリア語、英語の方がわかりやすいのだと知り、逆にそういうものなのだな...と納得した。けれど、どこの窓口でも、丁寧に「宜しくお願いします」「ありがとうございました」と挨拶しており、親バカちゃんちゃかりんだが、誇らしく思った。
今の時点、彼は日本では高卒で無職扱いになってしまうけれど、人間、学歴よりも、挨拶できる人間味のある人の方が今後重宝されるのだよ。そういう社会であって欲しいと思う。
帰宅し最後の荷物を詰めた。出発までの数日、帰国中会おう会おうと言って会えなかった友人がかなりいて、一人一人とメッセージを交換した。中にはこのコロナ禍で身内を亡くされた方が結構いた。皆年齢的にはそういう時期に来ているのかもしれないが、皆悲しみを背負いつつも前を向いている。一人じゃないと感じた。
また、学生時代家庭教師をしていた生徒(彼も既に48歳!)のお母様に電話を入れ、挨拶をしたらしばらくして、はーはー言いながら「私!」というインターフォンが。
あなたに何がしてあげられるかしら...と思い新作の人形の洋服があるから持っていって!と言ってダイソー・エリーちゃんとその衣装を頂いた。いつぞや近所の銀行で再開しお茶をしながら、彼女も編み物で創意工夫の世界を満喫していると知った。作品は地元の児童館に寄付したり、エリーちゃんの服は100体分以上編み続け、恵まれない子供達に寄付したいの。余生は人のために生きたいと仰っており、母よりも年上ではあるが同志のような気がしていた。
空港行きのバスのターミナルまでタクシーで出かけた。長男が送ってくれた。彼の不安、決意、そんなことを話してくれた。まだ若いんだから当たって砕けろ。何事も経験なんだよ。それが全て糧になる。おごっちゃいけない。人の縁は大切だから、感謝は忘れないように。おばあちゃんを支えてあげて。伝えられることは全て言った。
バスが動き始めて手を振った。いきなり父の葬儀以降抑えていた感情がどっと溢れ、3人しか乗っていなかったバスに嗚咽が漏れた。
ついに動き出した。
イタリアにおける第1回目のロックダウン前日にギリギリ滑り込みで帰国し、飛行機は2度キャンセルされ、秋に出発しようとしたら今度は母が倒れ....3度目の正直だが、イタリアはもう何回目?のレッドゾーンのミラノに帰宅することになる。
怒濤の10ヶ月。まだ出口の見えない世の中だが今後、コロナが終息しても、社会、経済の大きな変化の中を生き抜くには、誰もが相当な『覚悟』が必要となることだろう。場合によっては、激流に逆らい上流に泳ぐくらいの覚悟と努力がなければいけないだろう。それでも常に見えない手に導かれてきた。全て天のお方にお任せしようと思う。
