敏感力と鈍感力 | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

SNS上では、感染した人を特定する投稿が相次ぎ、事実と異なるデマまで流れるなど、差別や誹謗中傷がなくならない。
 
そのため助けを求める声が各地で相次いでいるのだと言う。
 
なぜ感染した人を責め立てる事態がおきるのだろう。
 
社会心理学者によると、こういった行為は不安の裏返しだと分析される。
 
かかっている人がいると、その人と自分は違うのだと思いたい。(いやそう思い込むのだろう。)かかった人は、きっと何か原因があるとか、悪い人なんじゃないかみたいに片づけてしまう、また自分はそんなことはないから大丈夫だと思いたい(いや、そう思い込むのだろう)がために人を責めてしまうのか。
 
人は皆自分には敏感で、人には鈍感なのかもしれない。不安で仕方なく、相手の心情まで想像できない。つまり「敏感」さが時に差別を生み、「鈍感」さで人を攻撃する。
 
しかし、その逆の自分に「鈍感」で人に対して「敏感」すぎる時もある。
 
「鈍感」というと、一般的にマイナスのイメージがあるが、俗に言う「空気が読めない」とか、「気が利かない」「配慮が足りない」という面が強調され、鈍感ではなく、敏感な方が良いとされてしまいがち。
 
いずれにしても、「敏感」「鈍感」正反対な言葉ではあるけれど、結局一人の人間は本来両方とも持ち合わせているものなのだろう。
 

この相反する感覚・感性を仕事、プライベートで上手にバランス良く使い分ければ良いが、下手をすれば差別に発展し兼ねない。というか、既に世界中でこの問題が起きている。

 

特に、人の噂話、三流週刊誌のゴシップ、ネットの誹謗中傷などには鈍感になった方がいいだろう。
 
「鈍感」であることこそが現代を生き抜く鍵であり、幸せを呼び込めるのかもしれない。