今日11月1日。イタリアは“Tutti I Santi “。カトリックの「諸聖人の日」の祝日。ちなみに明日11月2日は”Tutti i morti “「死者の日」だが、休日にはならない。
「諸聖人の日」は帰国中の地元の教会では、蜜を避けるため4つのグループにわけ、月に一度だけミサ参列可能な日が回ってくるが、今日はその日であったが、仕事のため行けず。毎週色々な司祭たちのメッセージが送られてきて黙想するが、昨日ある司祭のメッセージに興味深い画像が添付されてきた。
毎週その司祭のメッセージをミラノのカトリックのメンバーと分かち合うが、添付されていた画像が話題となった。
私がイタリア北部のビエッラにあるボーゼ修道院のhpのブログでこの画像が出ていたけれどボルタンスキーという人の作品らしいというところまで突き止めたら、芸術に詳しい友人が、「やった!ボルタンスキーの作品じゃないですか!」と興奮気味!感謝までされてしまった。
だっだっ誰ですか?
「彼のホロコーストに関連する作品は、見るのが辛い気分になるけど丁寧な空間の使い方を心得た作家」だと言う。「意味があるいい写真選んでたというわけですね。」と言われ、芸術音痴の私は???
クリスチャン・ボルタンスキー(1944年-)は、フランスの彫刻家、写真家、画家、映画監督である現代アーティスト。フランス人だがロシア系ユダヤ人の父を持つ。
古い写真や古着、ろうそくの光など、多彩な素材と方法により、“生と死”の問題をなげかける。’80年代後半から、ホロコーストの持つ“人間否定”の概念を扱った作品も発表されている。
日本との縁も深く、1960年代にテレビ番組の取材で来日し、それ以降も何度も日本で個展を開かれている。
画像のランプは2015年に発表された「黄昏」と言う作品で、会期初めは全部の明りが点いているが、毎日毎日3つずつ明かりが消えていき、最後は真っ暗になり、そう展覧会の終焉「死」へと向かう、と言うものを表現しているそうだ。
暗い静寂の中に輝く電球の光は、確かに「黄昏」時を物語っており、寂寞とした「来世」をイメージさせられる。
”黄昏“とは、大辞泉で調べると、
1. 夕方の薄暗い時。夕暮れ。
2. 盛りを過ぎて終わりに近づこうとする頃、とある。
また、古くは「誰(た)は彼(かれ)は」と、人の見分けがつきにくい時分の意、とあった。
余談だが、万葉集には、
「誰そ彼と われをな問いそ 九月の 露に濡れつつ 君待つわれそ」という歌がある。
たそかれと、われをな、といそ、ながつきの、つゆにぬれつつ、きみまつ、われそ...
あれは誰だと言わないでください。9月の露に濡れながら、あなたを待っている私ですよ。
「あなたは誰なのか?」では「私は誰なのか?」
ちなみに英語で「黄昏」は、“twilight”。太陽と月が同時に空に浮かんでいる様“two light”から来ているそうだ。
私の代母である85歳のシスターは、会うたびに、「毎日命の雫が落ちていくんですよ」、とおっしゃる。それは生まれた時から誰しも同じなのかもしれない。ただ、晩年に近づいてくると何気に意識し始めるのだろう。とはいえ、いつが晩年になるかは誰もわからない。
人生はオイル砂時計のようなのかもしれない。ひっくり返せば、一滴ずつ雫が下に落ちる。途中で止まることも、上に上がることもない。
「人生の黄昏」を意識しながら生きるのは、決して悲しいことではないだろう。まだまだサンセットまでには、少し時間があるだろうと思いたいが、これからの人生をいかに充実し、いかに楽しく生きられるか願いたい。
しかし、誰にでも必ず人生の黄昏時は訪れる。その時、慌てることなく、死を見つめることが出来ますように。
https://bijutsutecho.com/artists/293
https://boltanski2019.exhibit.jp/
https://www.catholicfuchuchurch.com/parish-priest



