私は出会いや自分の周りに起きる出来事は、全て偶然ではなく、常に「必然」であると信じている。
出会いは点と点の繋がりで、気付くと線になっている。その線がどんどん大きな形を作って行くのだ。
ところで、先週FBの知り合いの方が地元教会の神父様経由で、私に何か荷物を送ってくださったのだそうだが、それが違う方へ渡ってしまったと連絡が入った。なので、又神父様に戻してくだされば取りに行くよう話し、出かけて来た。
始めから金曜日に行きますと言っておいたが、予定が二転三転したものの金曜日に出かけたから良かったのか?
この新型コロナウイルス感染防止のため、ミサに与る事も出来なくなり、ミサは再開されたものの、教会によっては名前順、住所別、予約制などによってミサ参列が規制され、高齢者の参加は控えるよう促されているものの、高齢者こそ参列を希望され、逆に若い人(イタリアでも日本でも50代は教会では十分に若い!)は参列を控えるよう連絡が入ったという教会もあるそうだ。それはそれで仕方ない。
知り合いの司祭には行っちゃえば?と言われたり、上記約束のあった神父様にもどうぞ、と声はかけられたが、決まりがあるところに部外者の私がのこのこと出かけていくのは、肩身が狭い。だからミサに与れないのは当然のことと思っていた。
平日の朝は非公開ミサと聞いていたので、約束の時間までお御堂で祈っていたが、聖体拝領をどうぞ、といらしていた方に声をかけられ半年ぶりに拝領した。その後、教会の役員の方に肩を叩かれ、こちらに来て...と促され「あなたどこに住んでいるの」といきなり尋ねられた。「毎年帰国の度にこちらでミサにあずかっているし3月からミラノに帰れないのでしょう?ミサにいらっしゃい」と言って1枚の紙を渡された。それは本来教会の転入届なのだが住所を書いて、教会内で区分されているグループのミサに参加していいということになった。彼女を通じ何か計らいが下った気がした。
また、最近ある集まりで新たな知り合いが数人出来、さっそくFBでも繋がったのだが、お一人なんと人間違いで友達申請してしまったのだ。上記集まりの企画者と友人であったし、本来申請したつもりの方と同じ名字だったので、とんだ思い込み友達申請だったのだ。しかもその方は中部地方在住で本来お会いする事もない方だったはず。
「すいません。お気になさるようであれば、申請はキャンセルして構いませんよ」、と伝えた。しかし、これも何かのご縁ですかね...となりメッセージのやりとりをし、私が父の逝去のため帰国しそのまま戻れない旨を伝えると、その方は前日お母様の葬儀を終えたばかりで何か見えない縁を深く感じられたとおっしゃっていた。
実はそういう人間違え(逆に間違えられたケースもあり)やら何気に声をかけた事がきっかけで始まったつき合いが意外に私には多い。
人生無駄な出会いなどない、と思う今日この頃。その出会いはいかに自分に「意味が与えられるのか?」と考える。全て神のみ摂理。
きっと不要な出会いなら、そもそも出会っていないだろう。必要があるから出会うのだ。けれど、意味がすぐわかるとは限らず、時間がかかることも少なくない。神様は、意味の内容まで教えてくれない。当たり前の日常生活の中に、神様の思いがあり、それをきちんとキャッチしたいと思う。
だから、私たちは、学校、職場、隣近所、その他諸々にある人と人との関わりを、もっともっと大事にしていく必要があるのではないだろうか。日頃何気なく受けとめているあの人、この人とのつながりも、実は世界の何十億という人の中から、深い縁の力によって選ばれ、結ばれた結果である。
そう考えて、そこに感謝と喜びの心をもち、そのつながりを大事にしていく。そういうところから、お互いの心もよりスムーズに通いあって、ほんとうに力強い真の人間関係も育まれてくるのではないかと思う。
「出会い」は恵み。大切にしよう。
