「正義中毒」について考える | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

  
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コロナ禍から「自粛警察」という言葉をよく聞くようになった。
 
また、今始まったことではないが、SNS上での炎上や誹謗中傷。それは人の心をナイフでえぐり出し、時に自分で手を下さなくとも人を死に追いやるくらい、恐ろしい力もあるのだ。
 
ところで数ヶ月前、ある番組で「正義中毒」と言う言葉を聞き、気になった。「自分が絶対に正しい」と思い込み、自分の考えに反する他人の言動に対し、“許せない”という感情が沸き上がり、正義とはいえ過剰に相手に攻撃的な言葉を浴びせ、叩き潰そうとすることを脳科学的にそう称するのだそうだ。
 
正義中毒になるメカニズムやSNSとの関係性などを脳外科専門の中野信子女史が、番組で解説していたが、その一つとして、日本は自然災害が多いのでそう言った状況から生き延びるためには他人との協力も必要不可欠で、個人よりも集団の意思決定を尊重する社会がバックグラウンドにあると説明していた。
 
偶然にも、友人が彼女の本を持っているというのでお借りして読んだ。
 
「自分は絶対正しい」「他人の言動が許せない」
 
人間の脳は、他人に正義の制裁を加える事に悦びを感じるようにできている。この快楽に溺れてしまうと、決して人を許せない「正義中毒」状態になると言う。
 
しかしこの「正義中毒」は誰もが陥る可能性があると言い、何気に自分のいろんな言動が脳裏をよぎった。人間は脳の構造上、自分の属している集団以外を受け入れられず、攻撃しやすい傾向にあるのだそうだ。(いや、私は集団に属していなくても、自分の考えに合わない人に嫌悪感を持つ事がないか?)
 
正義中毒の人たちは、一見独自の理論、独自の正義をもっているように見える。だが実際は、自分がターゲットにされることを恐れて、多数派に流れているケースも多い。例えば、Aを「不謹慎だ!」と叩く論調が主流になると、異なる意見をいいにくくなってしまう。
 
しかし、社会全体で「正義中毒」の方向へと突き進むと、多様性を狭めてしまうことになり、非常に危険だ。
 
ただ、それは国民性によっても違う。フランス留学の経験がある著者も言っていたが、欧米では自分の意見を言い合い、議論を楽しんだりする。たとえ意見が違っていても相手を叩いたりする事はない。むしろ互いに意見を持つ人間同士として対等だからこそ、意見の違いの理由や背景を議論し、理解を深めていく社会と、同質なのが当たり前で、異質のものは排除しようとする力が働く社会....人生の半分がイタリア生活になって来たので、どうしても意見を普通に言える環境に慣れてしまい、私自身日本に帰国する度、違和感を隠せない。
 
また、同じようなファッション、同じような髪型、同じようなメイク...逆に均質化の波にのまれてしまいそうで怖くなる。(まあ、まずそれはないだろうが。苦笑)
 
結局、あとがきを読むと正義中毒に対する「答え」や「解決策」はないとあった。だからこそ考え続ける事が必要なのだと言う。
 
司馬遼太郎の言葉に『人の諸々の愚の第一は、他人に完全を求めるということだ』とある。
 
他人に完全を求めたり、自分が「正しい」と思っているから、その枠から出る物事を受け入れられなくなるのだろう。
 
難しいね。だって人間だもの。