「信仰とは99%の疑いと1%の希望である」
作家の故遠藤周作は、フランスの作家ベルナノスのこの言葉をよく引用していたという。私も疑いばかりだ。
信仰者というと、疑いも無く安心、安定した状態でいるように思われがちだが、内心はグラグラだ。
自分ではどうしようもない状況の中で、み旨に任せるしかない、と思いつつ、どこかに疑いは常にあり、限界の中で恨み辛みのオンパレード。ああ、信仰の薄さよ、逆に自己嫌悪に陥る日々だ。
ところで先日、母が午前と午後に病院の予約が入っており、1日がかりになる故、ついて行った。
20数年ぶりの某カトリック系病院。長女が乳児のころ、予防接種外来で通院していたことがある。
その前は、高校生の頃、私が盲腸、父も肺の病気で同時期に入院しており、病院内をパジャマでウロウロしていたことを思い出した。
当時病院内に置かれていた冊子「聖母の騎士」をぺらぺらと読んでいた事が、うん十年後の私の洗礼につながったのは、偶然ではないのかもしれない。
病院内の受付のマリア像を見、ふと立ち止まった。イタリアを出てから、教会でミサにあずかれたのは1度だけ。何ヶ月ぶりかのマリア像だった。
自分の力ではどうしようもない状況に置かれている今、ただただみ旨のままに従うように、といわれているような気がした。
信仰と疑いは、表裏一体、共存しているように思われる。しかし、これによって救いの道が閉ざされることはない、と言う。
ところで、以前父は、こんなに苦しむのなら長生きはしたくない、と言っていた。また母も今、こんなに痛いのなら長生きはしたくない、と同じ事を言う。あれこれと治療を試み、整形の先生も焦らず一緒にがんばりましょう、とおっしゃってくださっているのだが、昨日病院内で偶然友人に二十数年ぶりに出会ったという。
その彼女も脊柱管狭窄症で一時は歩けず、手術をするはずだったが、ある漢方薬で痺れがとれ、今は病院内にある針の治療でかなりよくなってきているのだという。だから、母にも希望を持って治療に向き合おうよ、と話した。
私の主、私の神。
ただただ、み旨に任せ、道が開かれることを祈るばかりである。


