父の四十九日の法要が行われた。
3月25日に法要の手配はしていたものの、コロナ禍の影響によってはキャンセル変更等の可能性も了承願うといわれていた。母と私と弟のみの参列予定であったが、一週間ほど前に弟が家からウェブで参列したいと言ってきたので、急遽僧侶に、ウェブでの法要は可能かどうか聞いてみると、電話での法要なら構わないということだった。
本来、『四十九日』というのは、仏教では故人の魂は四十九日まであの世とこの世を行ったり来たりしている、とされているようそうで、四十九日の日に極楽浄土にたどり着き、その後の行き先が決まるといわれているのだそうだ。とはいえ、私はカトリック信者であるし、両親には信仰という信仰はなかったが、父は戒名など要らん!と言っていたとはいえ、母はそうは行かないといい、最終的に母が納得行く形になれば...と思い従うことにした。
とはいえ、四十九日には仮の位牌であった「白木」の位牌から黒塗りの「本位牌」に魂を入れるという開眼供養というものが重要で、僧侶より、電話法要であっても、本位牌に魂を入れないといけないと言われ急遽本位牌を送ることにした。宅急便で送ろうしたら、位牌は受け付けていないとの事。郵便局へ問い合わせてみたら、やってくれるというので位牌を持ち込み、その翌々日僧侶が入魂された本位牌を直々持って来てくださった。
余談だが、この時期葬儀社は仕事も多いのでは?と思いがちだが、そうでなくても家族層が主流になりつつあり簡素化されている中、コロナ禍により、通夜や葬儀後の会食が排除されたり、通夜と葬儀が一日にまとめられたり、今やコロナではない病気で亡くなろうと葬儀が出せないようで、葬儀社の倒産もあやぶまれているが、僧侶もいろいろ予約が入ったり, キャンセルが入ったり大変なんです、ということだった。
閑話休題。
お経の後に僧侶より「位牌」に関するお説教があった。
白木位牌には「新帰元」という文字が入っており、これは元の場所に帰るという意味である、ということであった。その文字は本位牌には刻まれないが、仏教でも宗派により、白木に入る称号は違うようだ。
また、『親』という漢字は、「親しい」とも読むが、親しいという字は位牌を示している、ともおっしゃた。漢字学者の白川静氏曰く、「親」とは新たに祭られる父母であるのだそうだ。「親」とは「新」しいという漢字は左側が同じ。見るという字が含まれており、位牌を見るという意味なのだという。見ているのは, 残されたもの。つまり我々遺族や知人友人に当たる。位牌を見て供養をするという意味がこめられている。
上記漢字の左側は、「木」の上にあるものは「辛」の省略形で、右側が「斧」。新しい木を斧で切り、それを使って位牌を作り、それを間近に見て礼拝する。残された者が、我が父のためを思い、供養をし、礼拝する、という意味が「親しい」、「親」と言う字が表している。そういう意味で位牌は大切なのだと...
更に、「親」の字の右側は「見る」。視覚的なものではなく、心の交流。心の会話も含まれている、というのだ。私たちはこのように生きていますよ、これで大丈夫ですよね?と亡き父の為にお参りし、元気な顔を見せ、感謝の日々を送っていただきますようお願いします、と説法を結ばれた。
父もまさかこんな形で自分の法要が行なわれるとは想像も付かなかったことだろう。今後葬儀や法要のあり方も変るのだろうか?とはいえ、私もこのコロナ禍の問題でミラノの家に戻るに戻れない状況だが、あとは母の心が少しずつ癒されていくことを願うばかりだ。