限りなく透明に凛として | ミラノの日常 第2弾

ミラノの日常 第2弾

イタリアに住んで32年。 毎日アンテナびんびん!ミラノの日常生活をお届けする気ままなコラム。

入院中の父であるが、今日83歳の誕生日を迎えた。病院では朝食の際、祝福のメッセージがあったという。

 

父は、とりあえず酸素マスクはつけているものの、なんとか回復の兆し。「ごはんがまずい」「味が薄い」文句を言っているだけ元気なのかもしれない。苦笑

 

ところで、今日2月26日の誕生花は福寿草。

 

 

花言葉は「幸せを招く」「永久の幸福」「悲しき思い出」。

 

悲しき思い出は、226事件だろうか...

 

「福寿草」は、名前の通り、幸福と長寿を意味し、新春を祝う花として名づけられたと言う。

 

そういえば、父は岩手県花巻市の温泉地出身だが、実家の前に「福寿荘」という温泉宿があったことを思い出した。

 

ところで先月あたりから、新型コロナウイルスの件もあるけれど、何かと忙しかったり、自分が疲れが溜まっているときはよくないと思い、養老院にいるシスターPを訪問出来ていない。また体調がすぐれず車椅子生活になられてしまった神父様もおり、非常に気になっているのだが、今のこの時期、訪問しないことが良策であろう。

 

慰めや励ましは、逆に訪問することで与えられることも多い。

 

人は病気や人の生死、困難に遭遇した時、人生を強く考える。

 

ところで、日本語には”凛として”という素晴らしい言葉がある。辞書を引くと、

大辞泉

① 身がひきしまるように寒い。

② きりっとしている。りりしい。

 

明鏡国語辞典

① 態度・容姿などが、きりりとひきしまっているさま。

② 声や音がよく響くさま。

③ 寒気のきびしいさま。

 

とある。

 

身がひきしまるように寒い。寒気のきびしいさま...私たちが人間に深い品性を見たり、深い共感を感じたりするのは、案外そういう空気なのかもしれない。

 

人間の本来性、本来の姿といえば、幸せを求めることだと思うが、不幸や不運な状態、そういった状況の中でも、いかに生きるか、どういう姿勢で生きるかによって変わるものだと思う。

 

とはいえ、人生には自分ではどうしようもないことが起きることがある。努力だけではどうしようもないこと、負いようのない責任といったような想像を超える出来事だ。それに世の中は不条理に満ちている。だから宗教が生まれるのかもしれないが、どんな失意、失望の中であっても、これまた「人生」と受け止め、自分に与えられた生を生きるべきであろう。

 

ある著書に「限りなく透明に凛として生きる」というタイトルがある。好きな言葉だ。

 

自分が与えられた場で、たまたま出会った人と心を交わしていく。そういうことが最高に意義のあること。善良精美は急ぎを禁ず。毎日丁寧に。その積み重ねが、人の人生を形成していく。

 

限りなく透明に凛として...生きたいものだ。