入院中の父であるが、今日83歳の誕生日を迎えた。病院では朝食の際、祝福のメッセージがあったという。
父は、とりあえず酸素マスクはつけているものの、なんとか回復の兆し。「ごはんがまずい」「味が薄い」文句を言っているだけ元気なのかもしれない。苦笑
ところで、今日2月26日の誕生花は福寿草。
花言葉は「幸せを招く」「永久の幸福」「悲しき思い出」。
悲しき思い出は、226事件だろうか...
「福寿草」は、名前の通り、幸福と長寿を意味し、新春を祝う花として名づけられたと言う。
そういえば、父は岩手県花巻市の温泉地出身だが、実家の前に「福寿荘」という温泉宿があったことを思い出した。
ところで先月あたりから、新型コロナウイルスの件もあるけれど、何かと忙しかったり、自分が疲れが溜まっているときはよくないと思い、養老院にいるシスターPを訪問出来ていない。また体調がすぐれず車椅子生活になられてしまった神父様もおり、非常に気になっているのだが、今のこの時期、訪問しないことが良策であろう。
慰めや励ましは、逆に訪問することで与えられることも多い。
人は病気や人の生死、困難に遭遇した時、人生を強く考える。
ところで、日本語には”凛として”という素晴らしい言葉がある。辞書を引くと、
大辞泉
① 身がひきしまるように寒い。
② きりっとしている。りりしい。
明鏡国語辞典
① 態度・容姿などが、きりりとひきしまっているさま。
② 声や音がよく響くさま。
③ 寒気のきびしいさま。
とある。
身がひきしまるように寒い。寒気のきびしいさま...私たちが人間に深い品性を見たり、深い共感を感じたりするのは、案外そういう空気なのかもしれない。
人間の本来性、本来の姿といえば、幸せを求めることだと思うが、不幸や不運な状態、そういった状況の中でも、いかに生きるか、どういう姿勢で生きるかによって変わるものだと思う。
とはいえ、人生には自分ではどうしようもないことが起きることがある。努力だけではどうしようもないこと、負いようのない責任といったような想像を超える出来事だ。それに世の中は不条理に満ちている。だから宗教が生まれるのかもしれないが、どんな失意、失望の中であっても、これまた「人生」と受け止め、自分に与えられた生を生きるべきであろう。
ある著書に「限りなく透明に凛として生きる」というタイトルがある。好きな言葉だ。
自分が与えられた場で、たまたま出会った人と心を交わしていく。そういうことが最高に意義のあること。善良精美は急ぎを禁ず。毎日丁寧に。その積み重ねが、人の人生を形成していく。
限りなく透明に凛として...生きたいものだ。
