「教える」と「育てる」。両方合わせて「教育」。
相手に説明をして理解させることを「教える」と言い、その内容を実践し、身につけさせることを「育てる」と言う。
でもその「教える」と言う事が、詰め込みだったり、あれこれと命令しやらせるのはちょっと違うのではないだろうか?と思う。それだと言われた事しかできないし、機械的にインプットされるだけで想像力というものが育たない。
学生時代は成績が良くても、社会に出て言われた事しか出来ないという人間が日本でもイタリアでもどれほど多い事か!とよく聞く。やはり自分の頭でいろいろ考え工夫する事が大切で、その力が持てて、十分発揮されて始めて成長した事になるのではないかと思う。
過去に何度も書いてるけど、英語のEducation, イタリア語のEducazioneとは、ラテン語のeducereが語源で、意味は「引き出す」。私は、教育はそういうものだと思う。
親は、教えずに引き出す。そして本来の「子育て」をする。教師は、「教える」と「育てる」を両立する。
しかし、イタリアでは高校生になっても子供の勉強を見ていてくれ、と言う教師が多い。教師は楽だろうが、自主性がつかないだろうが!
ところで、私は父の逝去で一時帰国したものの、今回の新型コロナウイルスの件で, ミラノに戻るに戻れなくなってしまった。出発直前大量に買出しをして来たけれど、そんなのたかがしれており、いつまでも持つわけがない。さすがに物理的な距離が出来てしまえば, お互いが出来ることをするしかないわけで、今は三兄弟と夫が力を合わせて生活しているようだ。(ご飯を作るのは常に長男らしいが...)
やはり、大切なのは勉強だけではないだろう。いかに生きていくか、生きていく力を学ばさせるのかが親の務めではないだろうか。今は住むところがあるけれど、ご飯作りや役割分担をこなし、今まで当たり前であったという陰の支え、存在を理解することも大切だ。
そういう意味では、今回父の他界、そして未曽有のウイルス騒ぎは、深い悲しみと苦しみもあるが、その反面、試練でもあり、家族の一員として絆を育み、また各々の成長の時であると思いたい。
つくづく子育ては長距離走だと思う。そして、手間をかけない方が長続きする。今回のこの”どうしようもない”耐える時間は、お互いが「成長」する時。
教えることに手間をかけるのではなく、 育てることに手間をかけていきたい。