先日、空手の茶黒帯講習では「学ぶ」こととはどういうことか?という話があった。
知識の習得。今やネットから物事を学ぶことはできるが、やはり大事なのは、「人」から学ぶということ。人を鍋にたとえ、材料を沢山入れるためには、蓋を閉めてはいけない、と。
それは大人も一緒。自分はすでに勉強したから...というような気持ちでいてはいけない、ということだった。そういう意味では、私は「生涯勉強」だと思う。一口に「学び」「勉強」と言っても、いわゆる大学院など教育機関での学習だけではなく、仕事や読書、社外活動からの学びも大いにあるはずだ。
そして「学び」とは基本、大人も子供も感動が重要。何かのきっかけで、その面白さや楽しさに目覚めると、自分でどんどんその勉強を始めていく。数学はできるようになれば面白くなるし、読書は読ませれば好きになる。というのも、やはりそこに「理解」による「感動」があるからではないだろうか。
人類の学問とは、テストによってではなく、この「感動」によって発展してきたし、今後もそうなることだろう。
だから、先生や教える人の役割は、勉強を教えることではなく、ましてや詰め込みにするのではなく、その学問の面白さを引き出させ、感動を教ることなのではないだろうか?
前回は「知足安分」について書いたが、今回は「小欲知足」。欲を少なくして足ることを知り、今与えられているものに満足する、という意味。
先日アカデミー賞を受賞した韓国の映画「パラサイト」は、半地下で暮らし貧困に苦しむキム一家とそれとは真逆に高台の大豪邸に住むパク一家が、交わりストーリーが展開していくのだが、どんなに頑張っても貧困した家族は富裕層にはなれず、たとえ裕福になったとしても、貧乏臭さがとれることはないのだと感じているキム家の父親。大富豪の家に寄生したつもりでいても、結局対等には見られない、見られていないと気づいた時の絶望感。そしてキム家の長男は富裕層の象徴である石で頭を殴られてしまう... (あっネタバレか?!)
結局、幸せとは何か..心の持ちようなのではないか?
唐の時代の代表的な仏教僧である玄奘は「知足」をさらに深めて「喜足」(足るを喜ぶ)と訳したそうだ。今あることを、足りていることを喜ぶことによって、欲望も少し減少していくのかもしれない。人間、謙虚でいたいもの。